福島県会津若松市城前

 

大山捨松は旧姓山川、幼名さきという。会津藩の国家老、山川尚江重固の末娘として、安政7年 (1860) 会津若松に生まれた。知行1千石の家老の家で、なに不自由なく育ったが、慶応4年 (1868)、戊辰戦争が勃発し、この年の8月には、新政府軍が会津若松城に迫った。かぞえ8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。また女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれで大怪我をした。このときの官軍の砲兵隊長は、西郷隆盛の従弟にあたり、後に夫となる大山弥助(後の巌)だった。

会津藩は降伏、青森県下北半島の斗南に封じられ、山川家も斗南に移った。しかし斗南での生活は過酷を極め、飢えと寒さで命を落とす者も出る中、さきはフランス人の家庭に引き取られた。

明治4年 (1871)、政府は官費留学生を岩倉使節団に随行させることになり、男子だけではなく女子も募集した。この留学生に、さきの兄の山川健次郎が選ばれ、山川家は満11歳のさきも応募させ選ばれた。長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つのみ」という思いから「捨松」と改名させた。

この時の5人の女子留学生のうち2人は、病気などを理由にその年のうちに帰国してしまったが、捨松、永井しげ、津田うめの三人はアメリカでの暮らしにも順応し、後々までも親友として日本の女子教育の発展に寄与していくことになった。

捨松は利発で、英語をほぼ完璧に習得し通常科大学に入学した。東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘は、すぐに学内の人気者となった。また、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかった。捨松の成績はいたって優秀で、官費留学生としての強い自覚を持ち、学年三番目の通年成績で「偉大な名誉」の称号を得て、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性となった。卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」の講演を行った。

捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年 (1882) 暮れ、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に帰った捨松だったが、帰国した捨松は、ものの考え方から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた。また、帰国の頃には日本語が相当怪しくなり、漢字の読み書きにはてこずった。そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなく、仕事を斡旋してくれるような者すらいなかった。また23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢にあった。

この頃、巌(いわお)と名を改めた大山弥助は、西南戦争で従兄の西郷隆盛と戦い、大久保利通が暗殺されると、大山は従弟の西郷従道とともに薩摩閥の屋台骨を背負う立場に置かれていた。要職を歴任し、参議陸軍卿・伯爵となっていた。しかし妻は死去、後添えの女性を探しており、捨松に白羽の矢が立った。捨松の友人の結婚式に出席した大山は、捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われた。

大山からの縁談の申し入れを受けた山川家は、これを即座に断ってしまった。大山は会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んだ砲兵隊長その人だった。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」と断る山川家に対して、逆賊西郷隆盛の身内と言い従弟の西郷従道が説得にあたった。従道は連日のように説得にあたり、大山の誠意が山川家に伝わり、山川家も軟化した。

捨松は、「人柄がわからないうちは返事もできない」としデートを提案、しかし強い薩摩弁を使う大山の言っている事はさっぱり分らなかったが、留学経験のある二人は英語で話し、捨松も大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていったと云う。明治16年 (1883) 11月、参議陸軍卿大山巌と山川重固息女捨松との婚儀が行われ、完成したばかりの鹿鳴館で結婚披露宴が催された。

この鹿鳴館は、列強諸国との間の不平等条約の改正を国是としていた明治政府が、当時の欧米流の宴席外交を行う必要性を痛感し、井上馨が中心となって新築することを決定した施設だった。鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれたが、「鹿鳴館外交」の評判は必ずしも良いものではなかった。体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちの姿は、外国の外交官達にはいささか滑稽にも写ったようだ。

その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松だった。英・仏・独語を駆使し、諸外国の外交官たちと談笑する。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったもので、当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていた。そんな伯爵夫人を人々は「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになった。

捨松の活躍は、夜会や舞踏会だけには止まらなかった。当時大きな病院でも看護婦はおらず、数人の雑用係の男性がいるだけだった。捨松は看護婦養成学校の必要性を感じ、「鹿鳴館慈善会」を開き、並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、予想を大幅に上回る、鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付し、二年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。

捨松は、日本に帰ったら教職に就き、日本の女子教育の先駆けとなるというのが留学時代の夢だった。大山巌と結婚したあともこの熱意は冷めることなく、華族女学校(後の学習院女学部)の設立準備委員になった。明治33年(1900)、一緒に留学した津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子(永井しげ)とともにこれを全面的に支援した。

捨松は大山との間に二男一女をもうけ、これに大山前妻の三人の連れ子を合せ賑やかな家庭生活だった。巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、位人臣を極めた。政治には興味を示さず、何度総理候補に上げられても断り、そのため敵らしい敵もなく誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しんだ。

しかし巌は大正5年(1916)体調を崩し、12月、75歳で死去した。巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていた。しかし、大正8年(1919)、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。津田は病気療養のために退任、捨松はすったもんだの末その後任を決め、その就任を見届けた翌日倒れ、そのまま回復することなく急逝した。58歳だった。

夫妻の遺骨は、二人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です