福島県会津若松市花春町

 

この地はかつて大田谷地と呼ばれ、鶴が舞い遊ぶ湿地だった。朝日保方という白髪の老人が、この地の鶴の舞い降りた泉で、疫病にかかり難儀していた喜助という農民を介抱しこれを助けた。この老人が亡くなると、喜助は霊泉のかたわらに祠をたてて手厚く葬り、霊泉の泉を鶴ヶ清水と名づけたと云う。

永享4年(1432)頃、葦名氏十代葦名盛久は、この地を霊地であるとし別荘を建て、天正年間(1573~91)に十六代盛氏が別荘を復興し、これが御薬園の始まりとされる。

その後、領主は伊達、蒲生、上杉、加藤と移り、別荘はまったく顧みられなかったが、会津松平氏の藩祖保科正之は、この霊地の由緒を聞き、庭園を整備し保養所として用いるようになった。寛文10年(1670)、二代藩主保科正経は、聖徳太子の施薬院にちなみ、貧民の施療や疫病対策を兼ねて数多くの薬草の栽培をはじめ、これにちなみ「御薬園」と名付けられたと云う。

三代正容は、元禄9年(1696)、小堀遠州の流れをくむ園匠目黒浄定と普請奉行辰野源左衛門に命じ、規模を拡大し借景を取り入れた築泉回遊式の大名庭園として整備し、また薬用植物園では朝鮮人参を試植し、後に会津領内での栽培を奨励した。

この地に建つ御茶屋御殿は、幕末には、鳥羽伏見の戦いの後に会津に戻った松平容保は、若松城に入らずに この御殿で謹慎したという。また戊辰戦争時には、西軍傷病者の治療所として使用され、このため戦火を免れたと伝えられる。建物の柱や桟等に、今も当時の刀痕が残っている。

昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。

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