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福島県会津若松市栄町…興徳寺

 

蒲生氏郷(がもううじさと)は、弘治2年(1556)、近江国蒲生郡日野に生まれた。父は六角氏の有力な家臣だったが、六角氏は織田信長に攻められ、その人質として鶴千代は織田に出された。鶴千代は持って生まれた聡明さを信長に気に入られ、岐阜城で元服し「忠三郎賦秀」と名乗る。信長はその娘、冬姫を氏郷に娶らせた。

越前朝倉攻略戦では先鋒を務めるなど活躍、信長直属の旗本を務め、信長による天下統一のために粉骨砕身の働きを見せる。本能寺の変では、安土城の信長の妻子らを避難させ、羽柴秀吉と連携し亀山城などを攻略した。

その後は秀吉方の武将として活躍、天正18年(1590)、小田原攻めに参戦、この合戦の最中に秀吉と前田利家が伊達政宗の処遇を巡り紛糾し、利家の立場が危うくなったのを浅野長政と二人で懸命に秀吉に対して取り成し、事を収めることに成功した。

小田原開城後、秀吉は東北地方の平定のために奥州に入り、会津黒川城において秀吉の東北経営策である「奥州仕置」を発表し、氏郷に会津黒川を中心として42万石を与えた。

この氏郷の奥州への配置換えは伊達政宗を監視するという意味合いと、氏郷を出来るだけ畿内から遠ざけたい、という秀吉の思惑からのものと言われる。この転封について氏郷は「これで天下を望むべくもなくなった」と落涙して嘆いたと伝えられる。

高山右近とも親交があり、その影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受け、洗礼名をレオンと名乗った。また氏郷は「利休七哲」の一人として名を残すほど文武両道に秀い出た武将であった。 敵方の旧臣の子でありながら、信長に見込まれ婿として優遇されるなど極めて優秀な武将であった。また時勢を冷静に見極めて、状況を判断する政治力をも併せ持っていた。

信長の下で婿として「天下布武」に奔走し、信長の横死後に台頭した秀吉をいち早く支持し、秀吉のために尽力している。信長亡き後には妻・冬姫の妹を、養女として引き取って秀吉の側室に送り込み(三ノ丸殿)、さらに自分の妹・とらを秀吉の側室とし(三条殿)、秀吉との関係を強化している。また自らの娘を前田利家の次男・利政の室にするなど、槍働きだけでなく閨閥も大いに利用した。

奥州仕置きの中での大崎・葛西一揆をめぐる伊達政宗とのやりとりは有名であり、また、九戸政実の乱では、浅野長政らとこれを鎮圧し、その功績により18万5千石を加増され92万石の大大名となった。

しかし、その後吐血し発病し、文禄4年(1595)、伏見の蒲生屋敷で死去。氏郷の最期を看取ったのは高山右近であったという。辞世の句は「限りあれば 吹かねば花は 散るものを 心短き 春の山風」。氏郷の死についてはあまりにも突然のために「毒殺説」もある。

家督は13歳の秀行が継いだが、慶長3年(1598)、蒲生氏の家中で生じた家臣同士の内紛により、会津若松92万石から宇都宮18万石へ転封された。