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福島県会津若松市東山町大字石山字墓山甲

震災前取材

 

この山一帯は会津藩主松平家歴代の廟所で、明暦3年(1657)、保科正之の長子正頼死去のときに開かれ、保科松平家の墓所に定められた。

二代正経は仏教で、三代正容から九代容保までは神道で葬られている。藩主のほかに、家族や子孫の墓もある。神道の廟所は、碑石、表石、鎮石の三体からなっている。

会津藩初代藩主の保科正之は、徳川秀忠の側室の子であったが、正室於江与を憚り、信濃高遠藩の保科正光の養子として育てられた。三代将軍家光は、この異母弟正之を取り立て、会津藩二十三万石に封じた。正之は将軍の実弟でありながら謙虚に身を処し、家光の信頼を得て、四代将軍家綱の後見役に立てられ、幕政に重きをなした。

正之は松平の名乗りも固辞し続けていたが、正之死後、三代正容が松平を称するようになり、これにより保科家は会津松平家となった。

九代容保は、幕末に京都守護職に任ぜられ、京都の治安維持に活躍したために倒幕派と敵対し、大政奉還が行われて幕府が倒壊した後も、奥羽越列藩同盟の中心となり新政府軍と戦った。会津戦争に敗れ、旧会津藩領は没収され、松平家は会津を去った。