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福島県会津若松市河東町南高野字高塚山

 

日新館は、会津藩の藩校で、戊辰戦争により校舎は焼失し、現在はその跡に天文台跡が残っている。この地の「日新館」は、会津の観光スポットとして完全復元されたもの。

会津藩における教育の始まりは、寛文4年(1664)に、民間によって建てられた稽古堂があった。武士、庶民の身分に関係なく学ぶことができた学問所としては、全国の中で最も早い時期につくられた。会津藩初代藩主保科正之は税を免除し、これを大いに奨励したと云う。

その後、会津松平家三代藩主正容(まさかた)が、藩士教育のための学問所として郭内講所をつくったが、それも太平の世になり廃れ、藩士の士気も弛緩していた。しかしその中で、会津藩の財政は逼迫し、さらに天明2年(1782)から数年に渡り飢饉が続き、藩政の改革が必要となった。

五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時、ときの家老田中玄宰(はるなか)は、藩政の改革を進言し、その中心に「人材登用」と「教育の振興」をあげ、これが日新館創設のきっかけとなった。享和3年(1803)、会津藩の御用商人で呉服商の須田新九郎が、多額の新築経費を寄付し、それをもとに会津若松城の西隣に日新館の校舎が建設された。東西約120間、南北およそ60間の敷地に水練場や天文台までも備え、全国でも有数の藩校となった。

当時の会津藩の上級藩士の子弟は、10歳で日新館への入学が義務付けられ、15歳までは素読所に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所への入学が認められ、さらに優秀な者は、江戸や他藩への遊学が許された。

日新館からは優秀な人材が多く排出し藩政改革に尽力し、戊辰戦争時の白虎隊も日新館で学んでいた。明治から昭和にかけて活躍したキリスト教の指導者の井深梶之助や、また明治期に東京帝国大学総長になった山川健次郎なども日新館で学んだ。

什の掟

  • 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。
  • 一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
  • 一、虚言を言ふことはなりませぬ。
  • 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
  • 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
  • 一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
  • 一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
  • ならぬことはならぬものです。