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福島県会津若松市慶山二丁目…大龍寺

 

この会津の地に、信濃守護で信濃林城主だった小笠原長時一家の墓がある。

小笠原長時は、永正11年(1514)、信濃守護小笠原長棟の長男として生まれた。天文10年(1541)家督を継ぎ、当主として小笠原軍を率いた。

武田晴信が信濃経略を開始すると、反武田氏勢力と手を結びこれに対した。天文14年(1545)、妹婿の藤沢頼親が武田軍に攻められ、この救援に赴いたが敗れた。しかし天文17年(1548)に上田原の戦いで武田方が村上義清に敗退すると、この機に乗じて諏訪郡へ侵攻した。さらに塩尻峠へ進撃し武田軍と戦ったが、このときの戦いで家臣の裏切りにあい、迎撃する武田方との塩尻峠の戦いに大敗した。この頽勢を挽回することができず、天文19年(1550)には本拠の林城も失い、大名としての小笠原氏は一時滅亡した。

その後は村上義清、次いで越後の長尾景虎を頼り、その後は同族の三好長慶を頼り上洛し、将軍足利義輝の騎馬指南役を務めた。しかし永禄6年(1564)に三好長慶が病死し、翌年には足利義輝が暗殺され、さらに永禄11年(1568)には織田信長が上洛し三好氏が没落、このため再び上杉氏を頼った。

天正6年(1578)の謙信死後は、越後を離れて流浪した後、葦名盛氏に客分として迎えられた。盛氏の下で長時は厚遇され、軍師として戦略面で盛氏を助けた。天正10年(1582)、武田氏が織田信長に滅ぼされ、三男の小笠原貞慶が旧領に復帰し、長時も旧領復帰への準備をしていたと云うが、結局それはかなわず、翌年の天正11年(1583)、会津で病没した(異説あり)。享年70歳だった。