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福島県会津若松市栄町

 

甲賀町口門は、会津若松城の大手門として機能しており、この城門から続く甲賀町通りは、会津藩主が参勤交代で通った道である。

この門より中は城内となり、ここを界にして内側には侍屋敷を配し、外側は町民の住居とされた。当時城下には、このような門が16ヶ所あり、この甲賀町口は、他の城門と比べてより厳重な構えになっており、石垣と土塁が築かれ、外堀がめぐらされていた様子が見られる。

戊辰戦争の際には、戸の口方面から押し寄せた西軍が、この城門から城内に入ろうとして、激しい戦闘が展開された。

慶応4年(1868)8月23日、戸ノ口原を突破した西軍は、一気に城下に迫った。滝沢口に陣を構えていた藩主松平容保は、僅かの側近と共に甲賀町口門から城内に引き上げた。容保はここで自ずから指揮をとり、在宅していた老人たちも各々手槍を提げて、続々とこの門に集まった。また、家老の田中土佐らも滝沢口から戦いながら下がり、ここで残兵を集めて敵を食い止めようとした。

田中土佐は兵を指揮し、近所の藩士宅から畳を運ばせてこれを門前に積み胸壁にしようとしたが、その間もなく敵弾が飛来し、西軍が攻め寄せてきた。西軍は、中村半次郎(後の桐野利秋)らが率いる薩摩、土佐の精鋭で、門に向かって突進してきた。会津勢も門を開いて躍り出し突っ込んでいったが、この時の会津兵は、銃を持つ者は稀で、武器は刀槍だけで、敵の狙撃に死傷する者が続出した。

しかし、会津勢の士気は衰えず、味方の屍を踏み越え刀槍をかざして奮戦、凄惨な死闘が展開された。しかし西軍もその数を続々増やし、装備の優れた西軍は結局この白兵戦を制し、田中土佐はその責をとり自刃した。

しかし、24日、25日とかけて、四囲にあった会津藩兵は続々と帰城し防禦力も充実し、この城門は奪還され、9月23日の落城の日まで会津方の手によって守り通された。