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福島県会津若松市門田町黒岩主山

 

この小田山の中腹に、葦名氏三代葦名光盛から、八代詮盛までの歴代の寿山廟があった。「寿山」は三代光盛の法名にちなむ。

葦名氏は、鎌倉時代初期の相模の豪族 三浦義明の末子で、現在の神奈川県佐原に居住していた佐原義連を初代とする。治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると一族と共に参じて御家人となった。源平合戦の一ノ谷の戦いでは、源義経率いる搦手軍に属し、鵯越の逆落としでは真っ先に駆け下りたと伝えられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦にも従軍し、その功により会津、河沼、耶麻の諸郡を与えられた。

宝治元年(1247)の宝治合戦において、三浦氏宗家は滅亡したが、会津に分かれた佐原氏は、義連の子の盛連の代に子供たちを会津各地に配し、黒川(現会津若松市)には、盛連の四男の光盛が配され葦名氏を名乗り、会津支配の主導権を握っていった。

六代盛員のときがちょうど鎌倉末期に当たり、盛員は、幕府滅亡後の建武2年(1335)の中先代の乱では足利尊氏に与し、片瀬川の戦いで討死し、直盛が七代葦名氏を継いだ。この直盛の時に葦名氏ははじめて会津に下向、直盛は会津の幕内に下り、さらに幕内から小館に移り、現在の会津若松城の位置に東黒川館を築城した。直盛の跡は詮盛が継ぎ、戦国時代末期まで、会津守護として会津一円を支配していくことになる。

またこの地には、七代直盛の母である笹谷御前が観音堂を建立し、直盛は笹谷御前の供養のために宝積寺を建立した。このようなことから、この地が会津における葦名氏初期段階の霊場になったと考えられる。