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福島県会津若松市追手町

 

この地は、戊辰戦争時の会津藩の家老だった西郷頼母の屋敷跡である。屋敷は会津戦争で焼失したが、詳細な図面が残っていたため、現在会津の観光スポットの一つと して、「会津武家屋敷」として復元されている。

西郷頼母は、奥羽越列藩同盟軍の白河口総督として、白河城を攻略しそれを拠点として西軍を迎撃した。しかし白河城は落城し、会津防衛に方針転換、進入路に当たる峠の一つを守っていたが、西軍は母成峠を突破し城下へ侵入した。頼母はやむを得ず会津に戻り、急遽篭城のために会津若松城に入った。

城からは全員登城の命が下ったが、頼母の妻の千重子は、戦いの足手まといになることを恐れ、家を清め、白装束を着し、逆さ屏風を立てて、幼い三女田鶴子(9歳)、四女常盤子(4歳)、五女季子(2歳)を刺し、一族二十一人それぞれ辞世を詠み自刃した。
この直後、土佐藩士の中島信行が頼母邸へ突入したが、その時には西郷の家族は皆自刃していた。しかし見ると、頼母の長女細布子(16歳)だけが自決したものの死に切れず苦しんでいた。信行が近づくと、少女は遠い意識の中で「あなたはお味方か、それとも敵か」と聞いた。信行は思わず「味方です」と答えると、少女は安堵の表情で「武士の情けを」と懐から短刀を出して介錯を乞うた。信行は苦しむ少女に止めを刺すと、その場で号泣したと伝えられる 。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも

たわまぬ節は ありとこそきけ (千重子)
その後、西軍を攻撃するのに支障をきたす為、城内から会津兵により火矢が放たれ、西郷邸や近辺の武家屋敷は焼き払われた。