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福島県会津若松市山鹿町

 

江戸時代の軍学者として高名な山鹿素行は、元和8年(1622)、この地にあった蒲生氏の重臣の町野氏邸で生まれた。なお、この地は上杉氏時代には、直江兼続の屋敷でもあった。

山鹿素行は、名は高祐また高興、字は子敬、通称甚五左衛門、素行は号である。父は貞以で、蒲生氏郷の与力大名で白河城を与えられていた関一政に仕えていた。しかしその後浪人し、町野氏の客将となっていたと思われる。

寛永4年(1627)、浮沈の中にあった蒲生氏を辞し、一家は江戸に出て父は町医を開業した。素行は漢籍を学び、 寛永7年(1630)、9歳で林羅山に師事し、その後小幡景憲、北条氏長に師事、甲州流兵学を修めた。その後も、広田坦斎に就き和学、歌学を、高野山按察使院光宥からは神道を学んだ。

その才能は広く世に知られるようになり、早熟の秀才として諸大名から招かれたが、承応元年(1652)、播摩の赤穂藩主浅野長広に仕え、禄1千石を与えられた。赤穂では築城縄張りを行い、また明暦2年(1656)には「武教小学」「武教要録」「武教全書」などを著し、独自の兵学である山鹿流兵学を完成した。

万治3年(1660)、浅野家を離れたが、この頃から朱子学に疑問を抱き、老荘思想を学んだり、禅宗に接したりして、「山鹿語類」や「聖教要録」を著した。しかしこれは朱子学の信奉者であった会津藩主保科正之を怒らせ赤穂配流となった。

赤穂配流中は、赤穂藩士の教育を行い、後年元禄赤穂事件で有名になった赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄も門弟の一人である。この事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになった。

配流は9年間に及んだが、その間も「四書句読大全」などの大著を著し、赦免後も江戸に帰り「治平要録」などを著し、古学の先駆とされている。その兵学の学統は幕末まで継承され、その教えは、後代の吉田松陰などにも影響を与えている。

貞享2年(1685)、63歳で黄疸により没した。