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福島県会津若松市本町

 

諏方神社は、葦名盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、戦わずに勝利した。このことから、永仁2年(1294)に信州の諏訪大神を勧請し、領内鎮護の大神として創祀したのがはじまりとされる。その後、文明3年(1471)、および天文7年(1538)に黒川城下に大火が起こり、社殿や古文書などの多くが焼失した。

しかし、文禄2年(1593)、蒲生氏郷が会津へ入り、黒川城を大改修し、城下町を整備した際に、諏方神社を城下の総鎮守とした。また寛文7年(1667)に、会津藩主の保科正之が領内の各神社を調査、諏方神社を 「会津大鎮守六社」の首班とするなど、歴代領主の崇敬を受けた。

江戸時代、諏方神社では「会津暦」の製作が行われていた。当時、日本では宣明暦という中国の暦を使用していたが、この暦は使い続けるとズレが生じ、そのズレを是正し「会津暦」として何度かの改暦を重ね、明治まで使用されたと云う。

慶応4年(1868)、この地は、戊辰戦争の戦場となり、鳥居上部には当時の弾痕が残っており、この時の戦火により社殿は焼失した。会津戦争では多くの将兵たちが会津若松城に篭城したが、佐川官兵衛らは活路を求めて城外で戦い、部下を率いて城への糧道の確保等に当たった。城が落ちても納得せず、尚も戦い続けたという。鳥居の弾痕は、そのような中でのものと思われる。また、この地は城内守備隊長西郷寧太郎の妻「やほ子」外女性達4名が自刃した場所でもある。

明治2年(1869)に、本殿、幣殿が仮社殿として再建され、その後平成5年(1993)、戊辰戦争以前の規模で再建され現在に至っている。