福島県桑折町北半田字飛ル内

 

半田銀山は、桑折町の北半田、南半田から国見町にかけて所在した銀を主力に産した銀山跡。かつては佐渡金山、生野銀山とともに日本三大鉱山といわれた。

この地は、鉱石を運ぶトロッコ列車の橋脚跡で、この下は羽州街道が通っていた。この地の約500mほど西側に坑口の一つがあったという。またこの地には、明治天皇行幸記念碑、鉱山役人や銀山坑夫の供養塔、小川にかかる女郎橋などが残っており、往時の栄華を偲ばせる。

半田銀山は、大同2年(807)に発見され「むじな堀り」と言われる古い露天掘り跡が残っているが、坑道を掘っての開発は、1500年代後半からと考えられている。本格的には、慶長3年(1598)、佐渡金山開発の実績を持つ上杉景勝の頃より採鉱が始まった。その後、米沢上杉藩が、跡目相続で石高を大幅に減らされると、半田銀山周辺は幕府の直轄地となり、銀山は御直山となり、佐渡金山と同組織で経営された。役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され産出量も大きく伸び、最盛期には工夫1326人、床屋(精錬所)41軒があり、それに附随して多くの商店や施設が建てられ、佐渡金山、生野銀山とともに日本三大鉱山と呼ばれ幕府の財政に大きな影響を与えました。

しかし、幕末の元治元年(1864)には銀山の産出が大きく減産した事で直山が解除され、慶応3年(1867)からは早田傅之助が経営を引き継ぎ、明治7年(1874)からは薩摩藩出身の政商五代友厚が経営を引継ぎ、先進技術を導入し半田銀山を再興した。その後、明治、大正、昭和と操業を続けたが、山崩れや産出高の減少により、昭和19年(1944)日本鉱山へ経営が移り、昭和25年(1950)、三百数十年にわたる半田銀山の歴史に終止符がうたれた。

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