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福島県楢葉町北田字天神

 

天神山城は、楢葉町の天神岬の先端近くに築かれている。東は太平洋の断崖に臨み、南側には木戸川が流れ、30mほどの断崖となっている要害の地である。

北田神社のある位置が主郭で東西80m、南北80mのほぼ正方形、その東の二の郭は東西50m、南北80mの長方形、三の郭は東西100m、南北100~120mの台形で、北側には外郭があり主郭、二の郭の周囲に幅100mに渡って存在する。外郭には水堀がまわされていたようで、現在は公園のあやめ池になっている。各郭は土塁と堀で区画され、虎口は西側と北東側にある。東側は現在公園になっており、遺構はなかったというが、当然こちら側も未完成の城域だったと思われる。

この城は記録、伝承など皆無であり、名称、城主、築城年代などすべて不明である。また遺物なども発見されておらず謎の多い城跡である。しかし、土塁や虎口など、明確な形で残っており、その形態から戦国末期の構築であると考えられている。

文明6年(1474)までは、この地は岩城氏一族の楢葉氏が支配していたが、岩城親隆の将の猪狩隆清に攻略され滅亡した。それ以降、猪狩氏は代々この地の南方の楢葉城を拠点として、相馬氏の最前線としてこの地を守った。

戦国末期の天正18年(1590)、岩城常隆は豊臣秀吉の小田原攻めに参加したが、その凱旋の途中、鎌倉において病死した。常隆には嗣子が無く、常陸の佐竹義重の三男の能化丸を養子とし跡継ぎとした。当時8歳の能化丸は岩城貞隆と名をあらため、佐竹氏の家臣らの手によって検地が進められ、それによれば、岩城氏の知行は、菊多郡、磐城郡、磐前郡、楢葉郡の四郡十二万石であった。

恐らくこの城は、佐竹氏、岩城氏の意向を受けて、猪狩氏によってこの時期に築城が開始されたものと思われる。しかしその後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、岩城貞隆は兄の佐竹義宣と共に西軍よりの行動をとり、このため慶長7年(1602)、岩城領十二万石はすべて没収された。こうした中でこの天神山城は普請の途中で中断され、岩城氏改易と共に猪狩氏も四散した。

この城の位置づけは謎に包まれている。築城時期と思われる戦国期末期から関ヶ原の戦いの時期には、佐竹氏、岩城氏、相馬氏は婚姻関係で結ばれており、かつてのような相馬氏と岩城氏の緊張関係は無い。また、城は南側に堅い守りで、相馬氏側の北側は要害性はあまりない。時期的には徳川の上杉征討に対しての、佐竹氏、岩城氏、相馬氏が、ともにはかっての徳川に対する城なのかもしれない。