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福島県浪江町西台字館

 

別名:西台館

権現堂城は請戸 川の北岸にあり、西から東へ伸びる舌状台地の先端部に築かれている。台地の先端部を南北に二条の空堀で区画し、二つの郭が造りだされている。空堀は深さ10m、堀底は最大で6mほどもある。

台地の東側先端部が本郭と思われ、現在神社が祀られている。西側の郭は、本郭より大きいようだが、現在は藪になっており遺構は確認できない。

築城年代は定かではないが、文安年間(1444~49)に標葉(しねは)清隆によって築かれたと伝えられる。清隆は、南の岩城氏、北の相馬氏に挟まれながら、両勢力からの侵略を食い止めていた。しかし嫡男の標葉隆成には器量がなく、清隆が高齢化するにつれ、標葉氏を支えていた六騎七人衆ら重臣たちの間にも不安が広がっていた。

そのような中、相馬高胤は、標葉氏家臣に内応を盛んに働きかけ、長享元年(1487)12月、大軍をもってこの城を攻めた。このときは、標葉一門筆頭の泉田隆直や藤橋隆豊らは清隆に従い激しく抵抗、高胤は城を落とすことができぬまま、明応元年(1492)6月、陣中で急病により没した。

相馬軍は、高胤の死を秘したまま小高城に戻り、高胤の跡は13歳の嫡男の盛胤が継いだ。5年後の明応元年(1492)冬、盛胤は標葉攻めを開始し、標葉氏一門の泉田隆直の守る泉田館を囲み、隆直に盛んに降伏を勧めた。先の戦いでは標葉清隆に従い相馬氏と戦った隆直だったが、このときは標葉隆成の器量の無さにすでに宗家に失望していたようで、隆直は降伏し、相馬勢の先陣となった。

この一門筆頭の泉田隆直の降伏に標葉氏家臣団は動揺し、標葉一門の藤橋隆豊らが密かに相馬勢に使者を送り内応を約束した。相馬盛胤は隆豊らと謀り、標葉清隆、隆成父子の篭る権現堂城を激しく攻め、隆豊は城門を開き権現堂城に火をかけた。相馬勢は城内に乱入し、清隆、隆成父子はなす術も無く城内で自刃し、標葉氏は滅亡した。

その後、この地は相馬氏が支配するところとなり、岡田将監が城代となったとされる。