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福島県浪江町北幾世橋字古城

 

別名:泉田古館、万界城

泉田城は請戸川北岸の比高10m程の独立丘陵に築かれている。山上は平坦で目立った段もないが、中央やや東よりに南北に溝が走り、西に屈折して北側の中央虎口に向かって続いており、東西二郭になっていたと考えられる。北側の山裾部分に、空堀と土塁の跡がわずかに残っている。

泉田氏は、桓武平氏繁盛流標葉氏宗家の標葉隆安の弟の子である教隆が、建武年間(1334~38)に泉田村を領しこの城を築き泉田を称したと伝えられる。

この地は相馬氏と境を接する地で、泉田氏は代々泉田城に居し、相馬氏と対峙していた。標葉氏には、標葉六騎七人衆といわれる重臣らがおり、岩城氏と相馬氏の挟間で勢力を保持していたが、宗家の標葉清隆の跡を継いだ当主の隆成が粗暴であった事などから、その多くは標葉氏から離反した。

明応元年(1492)相馬氏と対陣中、隆直は相馬盛胤の勧誘を受けて降伏、一門筆頭である隆直が降伏したことで標葉家中は混乱し、藤橋氏らの内通により標葉清隆、隆成父子は自刃して標葉氏は滅亡し、標葉郡は相馬氏の支配下に入った。

隆直は、この標葉氏攻略の功績により、「胤」字と「繋馬」紋を許され、相馬一門に準じる家柄とされ、相馬中村藩成立後は御一家の一つとされた。

その後、関ヶ原の戦いにおいて、相馬氏は西軍よりの行動をとったため、慶長7年(1602)一旦改易された。しかし嫡子利胤らの訴えにより改易は撤回され所領安堵となった。これを機に、義胤は家督を嫡男利胤に譲りこの城を隠居城とした。しかし利胤が寛永2年(1625)に病死したため、幼くして相馬家を継いだ孫の虎之助の後見役となり、相馬中村城に移った。