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福島県国見町石母田字舘ノ内

 

石母田城は、厚樫山の麓に位置し、主郭、二の郭、三の郭からなる複郭式の城郭である。本丸は東西約100m、南北約120mほどで、周囲は水堀で囲まれ、三の丸への出入り口には南出丸、東出丸が設けられている。本丸を高さ4mほどの土塁が囲み、北側には物見櫓があったと伝えられる。

二の郭は主郭の南側にあり、西の郭と呼ばれていたらしい。主郭、二の郭の東南を囲むように三の郭があり、家臣団の住居があったと思われる。

現在、遺構のほとんどは、住宅地と畑地になっているが、主郭周りの土塁や水堀が良好な形で残されている。

石母田氏は甲斐武田氏の流れをくむと伝え、伊達家初代の朝宗が伊達郡に移ったとき、それに従いこの地に居住し石母田を称したという。

伊達稙宗と晴宗との間に起きた天文の乱の折には、この城は重要な役割を担った。稙宗は嫡男晴宗によって桑折西山城に幽閉されたが、小梁川宗明に救出され石母田城に移り、城は一時稙宗党の拠点となった。しかし晴宗は、稙宗の在城する石母田城を攻撃し落城させ稙宗は逃れた。

石母田氏内部はこのとき稙宗派と晴宗派に割れたようだが、その詳細は明らかではないが、これ以降は石母田光頼に石母田惣領家地位が移った。光頼は晴宗に仕え、守護代となり安房守に叙任された。その子景頼も伊達氏に仕え軍功をあげている。天正18年(1590)の奥州仕置の結果、伊達政宗が岩出山に移ると、景頼も伊具郡高倉村に移った。このとき城は破却されたと考えられる。