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福島県福島市杉妻町

 

別名:杉目城、杉妻城、大仏城

治承年間(1177~1181)、信夫杉妻太郎行信が、行基が建立したとされる大仏殿を中心にした場所に築城したと伝えられる。

室町時代には伊達氏が居住し、応永20年(1413)に伊達家11代持宗が懸田定勝と結び、鎌倉公方足利持氏に背き、500~600騎で大仏城に立て篭もった。この合戦では、二本松城主畠山国詮、結城白河満朝らによって攻められ落城、伊達持宗は会津へと逃れたが、後に大仏城を復興して支城とし、梁川城に居城したという。

天文11年(1542)、伊達氏14代稙宗と嫡男晴宗の間に家督相続を巡っての争いが起きるが、この争いに勝った伊達晴宗は、居城を米沢に移し、信夫郡南部は大森城の伊達実元が支配し、この城には牧野相模が在城したと推定される。

永禄7年(1564)頃、晴宗は家督を16代輝宗に譲り杉目城へ隠退、夫人の栽松院(伊達政宗の祖母)とともに居住した。晴宗の死後は、晴宗末子の杉目直宗が在城した。

天正18年(1590)、伊達政宗は秀吉の奥州仕置きによって信夫、伊達両郡は没収され、会津の蒲生氏郷領となった。翌年、大崎葛西一揆の不手際により蒲生氏の客将になっていた豊臣秀吉の家臣の木村吉清が、氏郷の城代として信夫5万石を与えられて大森城に入り、文禄元年(1592)に杉目城に移り、福島城と改称したとされている。

蒲生氏郷の死後蒲生氏は宇都宮に移され、慶長3年(1598)、秀吉によって上杉景勝が会津120万石を与えられ、福島城には水原親憲、のちに本庄繁長が城代として入った。

関が原合戦の起きた慶長5年(1600)、伊達政宗は父祖の地奪回のため、上杉の白石城を攻略し、信達盆地に2万の大軍で侵攻した。上杉軍は本庄繁長をはじめ4000の兵で迎撃した。主戦場は、当時信夫山南麓を流れ、福島城の北への防りとしても機能した松川の河原で、福島城からは目と鼻の先であった。本庄繁長は敗北を装い城に退却、伊達勢をひき付けて梁川城の須田長義と挟撃しこれを破った。

関ヶ原の戦いの後、上杉氏が米沢城へ移った後も、福島城には上杉の城代が置かれていたが、寛文4年(1664)、米沢4代藩主綱勝の急死による継嗣問題から禄高を削られ、幕府の天領となった。

その後は信夫、安達郡は幕領、藩領と幾度か変遷したが、板倉重寛が3万石で入封し、明治維新まで板倉氏の居城となった。慶応4年(1868)戊辰戦争で西軍に降伏、明治2年に板倉氏が三河に移り福島藩は消滅した。