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秋田県潟上市昭和大久保字小谷地

2015/08/28取材

 

応永年中(1394-1427)、現在の阿弥陀堂地区の肝煎伊兵衛が阿弥陀如来の金銅仏を土中から発掘し、草庵を建て安置したのが始まりと伝えられる。文禄年中(1592-95)、大久保村に移転し祿壽山圓福寺と称した。

この寺の本尊は、男鹿の脇本城主の守り本尊だった華厳釈迦三尊佛で、藤原成長作と伝えられている。

天正年間(1573~92)脇本城には、檜山安東愛季の弟で実季の叔父にあたる脩季(ながすえ)が城主として入っていた。しかし天正17年(1589)、交易の権益をめぐり、湊安東高季を中心に湊騒動が勃発し、脩季は宗家の実季に背き高季側についたため、実季勢に攻められ、脩季は城に火を放ち一族は自決した。

このとき脩季は、先祖から伝わる位牌と守本尊を家臣の佐藤下緒(しもおさ)に託し、下緒はその守本尊を笈に匿し、舟で上出戸海岸に逃れた。その後金足、小泉、乱橋と転々とし、のちに大久保に定住した。その子の佐藤伍兵衛家久は帰農し、太平の世になった元禄年中(1688頃)、旧主の菩提を弔うため、位牌と守本尊を圓福寺に安置し、それ以来、円福寺の本尊仏になったという。

寛文2年(1661)中興し、京都の大本山妙心寺の直末寺となり、明和元年(1764)には秋田久保田藩八代藩主佐竹義敦より寺領五石が下賜され、幕末まで継続した。幕末期の十六世荊瑞智は名僧と知られ、門下には大久保新関村指導者として名高い菅原源八がいる。

享保、寛政、天保の各年代に火災に遭い、多くの宝物、古文書類は焼失した。現在の本堂は嘉永3年(1850)に町後より馬踏川畔に移転再築されたものである。

明治14年(1881)年、明治天皇が東北巡幸の際に休息した御座所が現存する。また法堂の天井には、秋田狩野一派の作と伝えられる、ケヤキを用材とした72枚の色鮮やかな花鳥図がはめ込まれている。