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秋田県北秋田市米内沢
2016/04/05取材
米内沢城は阿仁川左岸の、倉ノ山から延びた、比高約140mの丘陵先端に築かれた山城である。南北に大きな郭が2つあり、北側が主郭と思われる。2つの郭は痩尾根で繋がり、2重の空堀で遮断されている。尾根の西側は急斜面で、東側は緩斜面に数段の段郭群が見られる。城域は東西約150m、m×南北約30mほどと思われる。
築城時期、築城主など詳細は不明だが、中世には阿仁川、小阿仁川流域を支配した在地領主嘉成氏が城主とされる。嘉成氏の出自は定かではないが、一説には15世紀、南部氏の出羽侵入に与力した陸奥葛西氏の勢力ともいわれている。戦国期は、檜山安東氏に従い、安東氏の比内侵攻、鹿角侵攻に主力として参陣した。安東氏の内訌の「湊騒動」では檜山安東方として比内から阿仁に侵攻する南部軍に備え、天正17年(1589)の阿仁侵攻では、嘉成常陸介資清は「米内沢塚の台合戦」で南部軍を撃退した。これを機に「湊騒動」で劣勢だった安東実季は反撃を開始し「湊騒動」に勝利した。
天正18年(1590)には、「湊騒動」の混乱で南部氏の支配下に置かれた比内の奪還に成功、嘉成資清は米代川中流域まで勢力を拡大し、翌年には同じ阿仁衆で風張城主松橋刑部盛光を攻撃し、阿仁全域を支配下に置いた。しかし、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)、安東実季は常陸に転封となり、嘉成氏嫡流もそれに従いこの地を退去した。
しかし嘉成氏一族には佐竹氏の支配に反抗するものも多く、阿仁一揆を起こしたが、佐竹氏により鎮圧された。しかし一揆には加わらず帰農した者も多かったようで、現在、阿仁郡には神成姓の家が相当数あり、その多くはこのとき帰農した嘉成氏一族を祖としていると考えられる。その後、米内沢城には佐竹義宣の家臣の赤坂朝光が入ったが、翌年の慶長8年に廃城となった。