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秋田県湯沢市内町…清涼寺

震災前取材

 

佐竹南家は、佐竹氏中興の祖といわれる第十六代当主義舜の弟の義里を祖とし、常陸にあって太田城の南に在住したことから南家と呼ばれた。

義舜の時代には、内紛により佐竹宗家は滅亡の危機にあった。なんとか危機は乗り越えたが、戦国期の真っ只中で、天文2年(1533)に北家の佐竹義信、翌年には東家の佐竹政義が没し、更に天文8年(1539)には北家の佐竹義住が戦死した。こうした事態に対して佐竹宗家を支えるために南家が創設された。南家の佐竹義里は兄の佐竹義篤を助け、兄の死後は東家の佐竹義堅や北家の佐竹義廉らと協力して若年の甥である佐竹義昭を補佐した。

慶長7年(1602)、佐竹義宣は、大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。その直後の関ヶ原の戦いの際に、西軍寄りの行動をとったと言うことで、義宣は家康から石高不明のまま国替えを命じられた。しかも義宣は旧領の常陸に戻ることも禁じられた。

佐竹南家三代目の義種は、佐竹当主の義宣が常陸に戻れない中、万端準備を行い、秋田への先駆けを勤め、義宣の受け入れの準備を遺漏なく行い、僅かな供回りで秋田に入った義宣を迎えた。

義宣は、義種のこの功に報いるため、所領として希望の地を選ばせたところ「雄勝、湯沢の城は狭少なれど、最上領に近く、また伊達領に近し。その上、上方に兵乱あるときは、先駆けによろし」とし、湯沢の地を望み、義宣は義種に八千九百石を与えて居城を許したと云う。以来、佐竹南家は明治までこの地を治め、十六代義隣の代に明治維新を迎えた。

この清涼寺は、義種が南家菩提寺として建立した寺で、塋域(墓所)には佐竹南家の祖の義里をはじめ、歴代の墓碑、位牌が安置されている。