秋田県由利本荘市山本字山本

震災前取材

 

仙台藩、米沢藩を中心とした会津、庄内藩の赦免運動は頓挫し、奥羽諸藩は仙台藩の呼びかけに応じ奥羽越列藩同盟を結んだ。秋田久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席しこれに調印した。

しかし秋田藩では藩論はまとまってはおらず、秋田領内には薩摩藩、長州藩、などの西軍が入り、また仙台から総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬が秋田に入った。

仙台藩はこのような秋田藩の動きに対して、秋田に使者を送り、九条総督の仙台への引き上げを申し入れた。これに対して、秋田久保田藩は、勤皇派と同盟派が激しく争い、最終的に藩主佐竹義堯の裁断で、秋田藩は同盟離脱を決定し、仙台藩の使者ら12人を殺害し久保田城下に首をさらした。これ以降、秋田久保田藩は西軍の拠点となり、周辺の仙台藩、庄内藩、南部藩らから激しく攻められることになった。

庄内藩は、いち早く酒井兵部の軍勢を藩境の三崎口に進め、四番大隊新徴組は鳥海山を越え、秋田領南東の百宅口から矢島攻略をはかった。それに対して本荘、亀田、秋田藩の連合軍は、三崎口に兵を集め庄内藩に対峙した。

7月25日、鳥海山を越えた庄内勢は、百宅口から矢島の八森城を急襲し、虚をつかれた八森城は落城した。秋田藩はこれに驚き、津軽から応援に来ていた成田隊と秋田の槍隊を急遽矢島に回し、秋田、津軽勢と庄内勢は、8月5日、この山田村油畑付近で衝突した。

結局、秋田藩6名、津軽藩9名の戦死者を出し、隊長の成田求馬は討ち死にし、秋田、津軽勢は壊走した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です