秋田県由利本荘市川西字野際

震災前取材

 

明治維新の際の 五箇条の御誓文の起草を行った由利公正は、由利氏の末裔に当たることから、この由利政春の墓の地に、「五箇条の御誓文有縁の地」の標柱が立っている。

由利氏の流れは滝沢と姓を変え、由利十二党の一としてこの地にあったが、周囲を安東氏、小野寺氏、武藤氏、最上氏などに囲まれ、最終的に最上氏に従い、滝沢の地に1万石を領した。

しかしその最上氏も改易され、滝沢(由利)氏の流れは、六郷氏の家臣となり、また別流は松平忠輝の臣の花井主水に仕え、三岡を名乗った。後に三岡氏は100石取りの福井藩士として幕末に至り、後に由利公正と名を変えた三岡義由が出た。

義由は、福井藩を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学び、橋本左内らと国事に奔走、藩主松平慶永から抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建した。

慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に就任し、長州征伐では、藩内の征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したが失敗し蟄居、謹慎処分となった。坂本龍馬とも親交があり、坂本とは新政府が取るべき経済政策について議論し、このことが新政府への参画を求められることになったと云う。

新政府では、明治政府の骨格となる五箇条の御誓文を起草し、金融財政政策を担当したが、商法司設置など積極的な政策が批判を受け、明治2年(1869)辞職した。

明治4年(1871)に東京府知事に就任、明治5年(1872)には岩倉具視に随いヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度、議会制度などを研究、明治7年(1874)には、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出した。

その後、元老院議官、貴族院議員を歴任、 明治42年(1909)享年81歳で没した。

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