2010/05/08取材

 

歴史散策⇒西軍砲陣地跡

会津若松市にはいたるところに戊辰戦争の戦跡が見られる。その中でも「西軍砲陣地跡」は、今回の歴史散策では、どうしても訪れたい場所の内の一つだった。

戦国期の末期には、すでに大砲が出現しており、近世の天守閣を持つ城郭は,戦いの城としてはすでに時代遅れだったと私は思っている。それは、徳川の大坂城攻めの際に証明されている。

会津若松城は、近くにこの砲陣地が置かれた小田山があり、天守閣は格好の目標となり、連日の砲撃にさらされた。近世に入ってからは、城攻めに大砲が使用されるであろうことは、当時の戦略感を持つ武将達にとっては当然推測していただろうことであり、現に、関ヶ原の戦いの際の徳川の会津攻めに際して、上杉景勝は戦いの城としては会津若松城は考えていなかったようで、神指城と向羽黒山城を徹底的に整備した。

小田山には、かつての会津の支配者の葦名氏の山城があり、砲陣地跡は、その山の中腹の、かつての腰郭と思われる場所にあり、ここから見下ろす会津若松城は、たしかに格好の目標となる。

会津松平藩をめぐる戦いは、実際には母成峠を突破され薩長軍が城下になだれ込んだことで、戦の大勢は決したはずだ。まして、この小田山に砲陣地を据えられたことで、勝敗は動かしがたいものになったはずだ。

会津の将も、近代戦における会津若松城の脆弱性を知らなかったわけはないと思う。にも関わらず、かれらは会津若松城に篭った。すでにこの時期には、会津藩を時代のスケープゴートとして、徹底的に叩き潰すことが官軍の目的であり、それに対する会津は、たとえ大砲が打ち込まれても、それまで長く培われてきた会津の文化の象徴である会津若松城に篭るのがやはり最善だったのだろう。

城にはこの地から連日砲撃が浴びせられ、それをかいくぐって会津の兵達は城下各地で激戦を重ね、城はぼろぼろになりながらもその誇りを守ったのだと思う。

結局、刀折れ、矢つき、会津藩は降伏する。しかし会津の誇りだけは守ったこの篭城戦も、実は戦いの始まりにしか過ぎず、その後長い期間をかけて、会津の文化と誇りはぼろぼろにされていく。彼らが戦った意義が見直され、会津が誇りを取り戻すのは、明治も末期になってからと思う。

眼下に広がる会津城下と、指呼の先にのぞめる午後の日差しの中で会津若松城をながめ、そのようなことを考えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です