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福島県会津若松市門田町黒岩主山

震災前取材

 

この会津若松城の東側の小田山には、戊辰戦争の際に西軍の砲台が築かれた。かつて、上杉景勝が徳川家康と対峙したとき、近世の戦いでの会津若松城の脆弱性を考え、向羽黒山城を決戦の城として整備したとも云われ、現に戊辰戦争時には、会津若松城はこの小田山 からの集中砲火を浴びることになった。

慶応4年(1868)8月23日、西軍は会津城下になだれこみ、会津勢は城門を閉じ篭城に入った。各地の戦場で戦っていた会津の藩兵たちも漸次城に戻り守りを固めた。西軍諸藩も、25日からは続々会津城下に入り城を囲んだ。

薩摩、鍋島、松代、大村、土佐、岡山、加賀の西軍諸藩は、この小田山に砲台を築き、城を眼下に見下ろしながら一斉に砲門を開いた。この小田山と城までは、直線距離で約1.6kmで、西軍のアームストロング砲の弾丸は、易々と城を襲い威力を発揮した。焼玉も使われ、城内ではしばしば火災も発生した。

会津藩も城外豊岡東照大権現堂と三ノ丸に砲台を設置し応射、一時は小田山上の砲台を沈黙させた。しかし西軍は、さらに小田山以外の二ヶ所に砲台を設置し、三方から天守閣を目標にして盛んに砲撃を行った。会津勢は小田山奪還のため城外に打って出たが、西軍の猛反撃を受け奪還は失敗した。

西軍はさらに砲を増やし、9月14日からは連日、一日3000発とも伝えられる砲撃を行い、会津若松城内は修羅場と化した。城内の婦女子を始め多数の死傷者を出し、会津藩は9月23日、ついに降伏した。