宮城県栗原市栗駒稲屋敷字森

震災前取材

 

別名:稲瀬城

安藤五郎窺家が居したといわれているが、館主として森周防守、森因幡守糺則の名前も見え、時代により変遷したようで定かではない。

しかし、この館に関しては、長保4年(1002)頃、この稲屋敷森館の森氏と里谷森館の森氏の間で、美女を巡り対立があり、ついに合戦へと発展したという。里谷勢はこの館へ押し寄せ、まわりの深谷地に稲を刈り敷いてその上を渡り押し寄せたという。このことから、この地を稲屋敷と呼ぶようになったと伝えられる。

東西約220m、南北約100mの独立丘全体が館跡で、頂部に東西約80m、南北約30mの主郭平場が見られる。主郭東には、空堀があり、その東側に二の郭と思われる平場がある。周囲には数段の段郭が同心円上に取り巻いている。丘陵の麓の周りには水堀があったといわれているが、現在は水田になっている。地形と伝承からすると、湿地帯と水堀に囲まれた円郭式の城だったと思われる。

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