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宮城県涌谷町涌谷字黄金宮前

震災前取材

聖武天皇が即位した神亀元年(724)は、政治的には不安定だった。このような混乱に応じて、聖武天皇は何度か都を遷したが、それが人々の不安を一層高めていた。さらに地震や天候不順、飢餓などの天災や天然痘の大流行などが続き、世情は大きく揺れ動いていた。

このような中、聖武天皇は鎮護国家の思想から世の中の平和を仏に祈願し、天平15年(743)廬舎那仏建立の詔を発布した。これが現在も残る世界最大の金銅仏の「東大寺の大仏」である。

しかし、大仏建立にあたって、鍍金用の金が絶対的に不足していた。当時、金はその殆どを輸入しており、大仏に鍍金する膨大な量を手に入れる見込みは全くなく、大仏の完成も危ぶまれていた。そのような折、天平21年(749)、陸奥国守百済王敬福が、この地で産した黄金(砂金)900両(約13kg)を献上した。 天皇は年号を「天平」から「天平感宝」へと改め大いに喜んだ。

この黄金で大仏の完成の見込みがたち、天平勝宝4年(752)、盛大な大仏開眼供養が催された。この供養会には、日本だけでなく外国からも大勢の僧が列席し、さまざまな舞楽が演じられ、仏教が日本に伝わってから最も盛大な儀式であったと伝えられている。

これに報いるため、陸奥国の租税は3年間免除され、陸奥国守百済王敬福をはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞した。また黄金山神社は延喜式内社となった。

神社周辺からは、「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年(1957)の発掘調査では、社殿のうしろ玉垣の中の神木付近で、建物の柱跡四基が発見された。この建物は、産金を記念し仏に感謝するため、陸奥国府の役人により建てられた仏堂であろうと推定されている。

発掘調査により日本の初産金の地は涌谷だったことが改めて確認され、 昭和34年(1959)、神社境内は「天平産金遺跡」として宮城県史跡に指定、昭和42年(1967)、国史跡の指定を受けた。現在周辺部は公園として整備されている。