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宮城県涌谷町箆岳字神楽岡

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箆岳(ののだけ)観音堂は、箟峯寺(こんぽうじ)の中心にある。石巻牧山、松島富山とともに奥州三観音の一つ。

箟峯寺は、光仁天皇の勅願で宝亀元年(770)に創建された。殺生禁断,女人禁制の浄地として結界を定め奥州鎮護の祈祷道場としてその面目を保ってきた。征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の為にこの地に来て、関連する伝説が多く残されている。

桓武天皇の勅命により東夷討伐の時,夷(えみし)の統領赤頭高丸と悪路王をこの地神楽岡に追い詰め滅ぼした。このとき敵味方の戦死者を塚をたてて葬った。この塚の上に、大同2年(807)、京都清水寺の十一面観音を勧請し観音堂が建立されたといわれている。

また次のようにも伝えている。

征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三箇所に埋葬し、持仏をもって観音堂を建立した。

箆岳にいた蝦夷の酋長大竹丸なる者が手向かい戦闘を交えたが敗れ、捕らえられて斬首された。その首は飛び去り、鬼首の地の岩に噛み付き無念の声をあげたという。

箟岳山という地名には次の伝説がある。

田村麻呂将軍が白山宮の東辺の地に鏑(かぶらや)を突き刺し、「東夷再び蜂起せずんば枝葉を生ぜよ」と七日七夜祈願したところ、不思議にも枝葉が生じこれを箟竹(のたけ:「箟」は矢竹の意)と称した。これが箟岳の地名になったという。

その後、奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の保護を受けた。しかし境内の堂塔はしばしば火災にあい、天正19年(1591)には葛西・大崎一揆よる兵火で焼失し、観音堂は正保2年(1645)、仙台藩二代藩主伊達忠宗により再興し朱印地を与えられた。天保13年(1842)には野火のため焼失し、嘉永4年(1851)再建されたのが現在の堂である。

なお、鐘樓の鐘は、寛文11年(1671)涌谷邑主伊達宗元が、この年原田甲斐の凶刃に倒れた父伊達安芸宗重の供養のため寄進したものである。

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