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宮城県栗原市金成姉歯…瑞満寺

震災前取材

 

姉歯武之進(あねはたけのしん)は、弘化元年(1844)、現在の宮城県黒川郡大郷町大松沢に、仙台藩士大河内頼存の弟として生まれ、長じて栗原郡金成町の仙台藩士姉歯忠三郎へ婿養子として入り姉歯姓を名乗った。若くして剣の道に優れ、免許皆伝の腕だったと云う。

鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩摩藩、長州藩を主とする新政府軍に破れ、徳川慶喜も恭順し江戸城は開城した。

東北諸藩は、京都守護職だった会津藩主松平容保が、薩摩長州勢力を中心とした明治新政府によって「朝敵」にされたことに対して概ね同情的だった。長州藩は「禁門の変」では朝敵となり、会津藩は御所を守り、時の孝明天皇の松平容保への信頼は篤いものがあり、会津藩、庄内藩への新政府の対応は理不尽なものにうつっていた。

慶応4年(1868)3月、新政府は、左大臣九条道孝を総督とし、薩長兵を中心とした部隊570人を、海路仙台藩へ派遣した。仙台領に入った新政府軍は、仙台城下で強盗、強姦などの乱暴狼藉を働き、仙台藩士らを激怒させた。

九条総督は、東北諸藩に「会津、庄内追討」を命じ、仙台藩や米沢藩は会津藩境へ出陣した。姉歯武之進は、藩命により瀬上隊の軍監小隊長として福島に入った。

会津藩は仙台藩の説得により降伏を決意した。会津藩への穏便な処分を願う伊達慶邦は、閏4月11日、首席家老但木成行に命じて東北地方14藩の首脳を仙台領白石に召集し、「白石列藩会議」を開いた。伊達慶邦と、米沢藩の上杉斉憲は、会津藩への寛大な処分を嘆願する東北諸藩の連名による嘆願書を九条総督に渡した。

しかし、参謀の世良修蔵は、仙台藩、米沢藩を「仙米賊」として、「奥州皆敵と見て逆撃の大策に致候に付……」とし、会津のみならず、あくまで奥羽全域の武力制圧が目的である事が判明した。これにより藩論が定まらなかった仙台藩は、一気に主戦論に傾き、その怒りは世良修蔵に向けられた。

同年4月19日、姉歯武之進は瀬上主膳や福島藩士らとともに、福島の妓楼金沢屋に宿泊していた世良修蔵を襲撃し捕縛、翌日、近くの阿武隈河原で処刑した。

その後、白河口の戦いに参戦し、激戦の中流れ弾に当たり死亡した。享年25歳だった。