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宮城県大崎市松山千石字熊野堂

震災前取材

白鳥神社は、和賀氏の氏神であり、和賀忠親の死後、 実質的に和賀氏は滅亡したが、伊達政宗は和賀の遺児を探し、和賀義弘を見つけ出し、慶長7年(1602)、松山邑和賀山に千石を与えた。 この祠は、この地の和賀氏一族が建てたもので、今でも和賀の家臣の流れを汲む方が守っている。

和賀氏は岩手県南部一帯を領していたが、 小田原に参陣せず、その後の奥州仕置により、葛西、大崎、稗貫氏らとともに所領は没収された。その後、太閤検地が実施されると、大崎、葛西、稗貫、和賀氏らの旧臣らが蜂起し、和賀義忠も残党を率いて参加して居城の二子城を奪回した。しかし、蒲生氏郷率いる一揆鎮圧軍にやぶれ義忠は逃走の途次、領民に殺害されたという。

その後、義忠の嫡男の忠親は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、南部勢が出羽の最上救援に出払っていたすきを突き、伊達氏の支援の下、花巻城を攻めたが落とせず、岩崎城に篭った。関ヶ原の戦いがあっけなく終わったために、南部勢に攻められる中、伊達の支援を得ることもできず孤立し、慶長6年(1601)に南部軍によって攻略された。

和賀忠親は伊達領に逃れたが、この一揆に伊達の関与を疑う徳川家康から召喚され、江戸に出向く途中、仙台の宮城野の地で自害したとも殺されたとも伝えられる。

これにより、和賀氏の嫡流は滅びたが、松山の和賀氏の流れは現在に伝えられている。