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宮城県大崎市松山千石字松山

震災前取材

後三年の役の折に、源義家の武将、鎌倉権五郎景政が、寛治2年(1088)、東北地方の平定に遠征の際、この地に立ち寄り、羽黒山中央に壇を築き、杉の木一本を植え、はるか出羽三山を拝し戦勝を祈願した。その祈願が成就し、東北地方を平定の帰途再び当地に立ち寄り、一宇を建てて、羽黒大権現の分霊を勧請したのが起源と伝えられる。

藩政期には松山周辺の14ヶ村の総鎮守だったが、明治期に神明社・八幡社・山神社・諏訪社の四社を合祀している。拝殿にある羽黒神社絵馬(小野寺凰谷の作)は町の文化財に指定されている。

権五郎手植えの杉は、その後権五郎杉と呼ばれ、成長し近隣第一の大木となり、安永2年(1773)、その傍らに碑が建てられ由緒が記された。しかし、樹齢700余年の歳月を経て、寛政10年(1798)の大風により倒れ、現在根株の一部が社殿に保存されている。