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宮城県仙台市青葉区宮町5丁目(清浄光院境内)

2018/05/17取材

 

この地の墓石は、この地より800m程南の、現在の小田原六丁目にあった遊郭で働き、無縁仏になった遊女たちの墓である。

江戸時代に、仙台城下では、かつては舟丁あたりに小保(おぼ)町という遊客街があったが、寛文事件以来、仙台藩は遊女屋を禁じたため、目立った遊郭はなかった。

しかし、戊辰戦争において仙台藩が敗れ、仙台城二の丸に官軍が進駐してくると、その要請により、当時宿場町だった国分町に遊郭が置かれた。しかし、市街地の中心にあるのは好ましくないとし、明治12年(1879)み、広瀬川を挟んで陸軍第二師団の向かい側の常磐町(現・仙台市民会館周辺)に移転した。しかしそれも、陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないという理由や,日清戦争に伴う綱紀粛正により明治27年(1894)郊外に移ることになり、小田原に、楼閣,楼主,そこで働く全員が集団で移転させられた。

新遊郭は振袖町などと呼ばれたりもしたが、正式な名称は「比翼町」や「八重垣町」など二転三転し、最終的には新常盤町となり、以後、仙台を代表する遊里へと発展した。

移転当初の貸座敷数は19軒で,1901年12月末には大楼が8,中楼が11,その他が16の合計35軒と増加し,娼妓の数も300人ほどだった。この遊郭の開業は、帝国大学の学生や、陸軍第二師団や歩兵第四連隊の軍人に,東北各地の商人など、新たな人の流れを生み出しおおいに繁栄したようだ。

しかしもちろんその繁栄の陰には多くの悲劇があった。大正末期から昭和初期にかけて、東北地方は凶作や昭和恐慌で疲弊していた。そのような時代、借金の形に、農村から娘たちが「身売り」された。古い証文からすると 「壱千参百円也(当時、仙台では1千円で2階建ての家を買えた)、正金貸、但シ無利子、稼業所得ヲ以テ返済ノ約、契約方は満5年トス、玉代ハ楼主5分本人5分ノ割合」 とあり、女性本人が借用人だが、現実には親が楼主から大金を借り、親は「連帯人」で、本家や地主が「保証人」に名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる内容だった。

しかし公娼制度は、「人身売買である」として、戦後の昭和21年(1946)にGHQにより廃止され,売春防止法の施行により,昭和33年(1958)には根絶された。

この間、遊里で一生を終えた者も多く、身寄りもなく引き取り手もなく、無縁仏のまま亡くなった者も多かった。この「仙台睦之墓」は、明治37年(1904)に楼主たちにより建立されたもの。近年、墓地整理で下を掘ると、「一抱えもある石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた」という。墓の戒名は一つで「慈照妙喜信女」とある。

以前、「○○日の仏、供養してくだされ」、こう言って、ぽつんとお参りにくるおばあさんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏だった。その命日は、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」だった。住職はだれからともなく知り、黙って拝んできたという。