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仙台市青葉区小田原6丁目

2018/05/15取材

 

仙台東照宮の門前町の宮町の東に隣接するこの地は、かつては振袖町とも呼ばれた遊郭街だった地である。

この地は、延宝年間(1678~81)、仙台城下町の第3次拡張が実施され,小田原村の一部が城下町に組み込まれ、このとき、車通・山本丁・金剛院丁・広丁・大行院丁・清水沼通・牛小屋丁・蜂屋敷の「小田原八丁」が町割りされた。この「小田原八丁」のうちの1つの蜂屋敷に立地している。

仙台城下では、かつては舟丁あたりに小保(おぼ)町という遊客街があったが、寛文事件以来、仙台藩は遊女屋を禁じたため、目立った遊郭はなかった。もちろん、城下各所の茶屋街で、同様のことが行われていたことは容易に推測できるが、吉原のような大規模な遊郭街はなかったようだ。

戊辰戦争において仙台藩が敗れると、仙台城二の丸に官軍が進駐し、その要請により、当時宿場町だった国分町に遊郭が置かれた。しかし、市街地の中心にあるのは好ましくないとし、明治12年(1879)み、広瀬川を挟んで陸軍第二師団の向かい側の常磐町(現・仙台市民会館周辺)に移転した。しかしそれも、陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないという理由や,日清戦争に伴う綱紀粛正により明治27年(1894)郊外のこの地に移ることになり、楼閣,楼主,そこで働く全員が集団で移転させられた。

この地には、江戸時代には仙台藩の養蜂場があった地で、七北田川の支流の梅田川が流れ、沼が点在し、田畑、山林、馬の放牧地などが広がり、松尾芭蕉が訪ねた玉田横野と呼ばれる地の一画だった。

新遊郭は振袖町などと呼ばれたりもしたが、正式な名称は「比翼町」や「八重垣町」など二転三転し、最終的には新常盤町となり、以後、仙台を代表する遊里へと発展した。

当時の賑わいは相当のものだったようで、移転後に初めて行われた七夕は,各楼が意匠を凝らした飾り付けを行い、当時の新聞には「……斯る人出は遊廓移転以来始め見る処にて,之が為めに各楼とも相応の来客ありて頗るに賑へり,而して小田原新丁,車通辺は昼さへ通行人の稀なる処なるも同夜は往来の繁きこと近年其比を見ざる処なりし,」と報じられている。

移転当初の貸座敷数は19軒で,1901年12月末には大楼が8,中楼が11,その他が16の合計35軒と増加し,娼妓の数も300人ほどだった。この遊郭の開業は、帝国大学の学生や、陸軍第二師団や歩兵第四連隊の軍人に,東北各地の商人など、新たな人の流れを生み出しおおいに繁栄したようだ。

しかし公娼制度は、戦後の昭和21年(1946)にGHQにより廃止され,売春防止法の施行により,昭和33年(1958)には根絶された。終戦後、この地の楼閣は旅館街に衣替えし、地名も「旅籠町」と変更され、修学旅行の生徒たちを受け入れたりしていたが、建物の老朽化などで、旅館として営業していた建物もほぼなくなり、町名も小田原6丁目と変更になり、現在、遊郭だったことを忍ばせるものはほとんどない。付近に遊郭で亡くなった娼妓で無縁仏となった女性達の「仙臺睦之墓」が残るだけである。

 

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