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宮城県丸森町矢洗

丸山城は伊達政宗の曾祖父稙宗が築いた。天文17年(1548)、伊達稙宗と晴宗父子が争い、これに敗れた稙宗が隠居した場所である。稙宗は永禄8年(1565)に没するまでの17年間この城で隠居生活を送った。

天文年間初頭、勢力拡大を図る稙宗は三男の実元を越後の上杉氏へ養子に出そうとした。だが、越後ではこれに反対する勢力も多く、稙宗は実元に屈強な家臣100名を随行させることにした。しかし長男の晴宗は、越後国内の争乱に対する危惧と伊達氏家臣団の弱体化を恐れてこれに反対、それが原因で父子相克の内紛が発生した。

天文11年(1542)、晴宗は稙宗を幽閉したが、稙宗は脱出し、縁戚関係にある諸大名に救援を求めた。このためこの伊達家内の争いは、縁戚関係にある相馬氏や最上氏をはじめとする東北諸大名を巻き込む大乱となった。緒戦は稙宗側が優勢であったが、次第に晴宗側が巻き返し、稙宗が強制的に隠居させられて晴宗が家督を継ぐことで終焉した。

稙宗没後は、この城をはじめ、隠居領としてもらっていた丸森ほか五ヶ村は、稙宗の世話をした長女の嫁ぎ先の相馬氏がそのまま所領とした。これが後に伊達氏との争いの大きな原因となった。

天正4年(1576)、伊達晴宗、輝宗父子は、小斎矢の目に陣を敷き相馬氏を攻撃した。天正12年(1584)まで8年もの間、丸森、金山、小斎の各地で激しい戦いが交えられた。その間に晴宗は没し、輝宗の子の政宗もこの地に出陣している。

結局戦いは伊達の勝利となり、伊具郡は元の伊達領となり、丸山城には黒木宗元が入った。その後、高野氏、大条氏が入ったが、慶長6年(1601)頃大条氏は麓の鳥屋城に移り廃城になった。 本郭跡には愛宕神社が祀られ、また伊達稙宗の墓碑が建っている。