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宮城県大河原町金ヶ瀬字新開東

 

文治5年(1189)、源氏と奥州藤原氏が戦った文治の役の際、藤原氏方の総大将藤原国衡が、乗馬ごと深田にはまり、源氏方に討たれた。以来、村人はこの田を「馬取田」と呼び、国衡の菩提を弔った。

藤原国衡は奥州藤原氏3代藤原秀衡の長男だが、母は蝦夷の娘であったとも言われる側室だったために、平泉の家督は弟の藤原泰衡が継いだ。西木戸太郎とも呼ばれている。

文治3年(1187)、源頼朝から追われた源義経が平泉へ落ち延びると、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護し、鎌倉との対決を主張したが、義経追討の院宣が下ると、4代泰衡は義経の屋敷を襲撃し、弟の忠衡も滅ぼしてしまった。

頼朝は義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏に対して征伐軍を派遣し、国衡は泰衡から大将軍に任命され、伊達郡阿津賀志山(現福島県、厚樫山)で防戦した。

この戦いで、国衡は和田義盛の弓による一騎打ちに応じて負傷、阿津賀志山の戦いは負け戦になった。この敗走中、馬が深田にはまり身動きがとれなくなったところを畠山重忠勢の大串次郎によって討たれた。

この国衡の乗馬は、「高館黒」という奥州一の名馬で、畠山勢によって捕獲された。以来この地を馬取田(まとりだ)と呼ぶようになったという。 里人達はこの地に、周り8間、高さ6尺の塚を築き冥福を祈るとともに、この馬のはまった田を永年耕作することはなかったという。