宮城県大和町吉田字一ノ坂(保福寺)

 

但木土佐成行(なりゆき)は、仙台藩の重臣の家系に生まれ、戊辰の危機に当たり奉行に挙げられ、国政を執行し、軍事を総官した。当時の仙台藩の財政は最悪の状態で、但木土佐は、文久2年(1862)には、10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営することを宣言し、緊縮財政を断行した。この緊縮財政に加えて殖産興業政策によって藩財政建て直しをはかり、以後、藩主の信任を得て仙台藩幕末維新期の政局を担っていった。

但木土佐は、仙台藩校の養賢堂で大槻磐渓の薫陶を受け、日本を、列強諸国の植民地化から守るためには、欧米の文明を早く取り入れ、「富国強兵」策をとりいれるべきで、徳川幕府を改革し、穏健に進められるべきとの考えだった。しかしこの時代は、客観的な冷静な理念ではなく、尊皇攘夷の激しい感情の中で動いていた。

但木土佐のもとに、あるとき同じ養賢堂出身で攘夷派の星恂太郎がたずねてきた。恂太郎は仙台藩の中でも強硬な攘夷論者で、開国派である大槻磐溪や但木土佐の暗殺を計っていた。但木土佐は、恂太郎を自分を狙う攘夷論者と知りながら屋敷にあげ、開国の理を説き、恂太郎に対し、「余を以って売国奴となすと憂国の情、真に愛すべし。然れどもおしいかな。子(し)は仙台の小天地に棲息し未だ世界の大勢に暗く、眼孔小にして識見陋(ろう)なり。未だ真成の憂国の士と称するに足らず。子、今より知識を世界に求め、真の憂国者たれ」と諭し洋兵学を習うことをすすめ、その後援助したと云う。

恂太郎もひとかどの人物であり、考えを異にする但木土佐の言葉を受け入れ、江戸で西洋砲術や洋式の銃隊編制調練などを学び、さらに諸国を遊歴して各藩の兵備を視察し、その後仙台で洋式銃隊を編成し、函館戦争に出向くことになる。

慶応3年(1867)、徳川慶喜が大政奉還を行うと、但木土佐は、列強が虎視眈々と日本を狙っている中、内乱を起こすべき時にあらずと、四方に奔走したが、その意見が聞き入れられることはなく、王政復古の大号令が発せられた。翌年1月の鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗を掲げた薩摩、長州藩兵を中心とした新政府軍が幕府軍を圧倒し、4月には江戸城は開城した。

新政府の東北諸藩に対する対応は厳しいものだった。とくに会津藩と庄内藩は、長州藩、薩摩藩の恨みをかっていた。会津藩と庄内藩は、新政府軍との戦闘を見越し同盟を結んでいたが、但木土佐は、戦争の回避に奔走した。しかし、新政府は、仙台藩、米沢藩などの東北地方諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣した。この間、只木らは会津に謝罪させようとしたが果たせず、やむを得ず仙台藩は会津藩境に出兵した。新政府軍は、仙台城下で強盗、強姦などの乱暴狼藉をはたらくものが多く、仙台藩士らは怒りをつのらせていた。

しかしこの間も但木らは米沢藩等とともに会津藩と接触を保ち穏便な解決を模索し、会津藩は一旦は降伏した。仙台藩は、奥羽諸藩とともに会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を新政府に提出し弁訴したが、参議世良修蔵らはこれを許さず、仙台藩、米沢藩を朝敵とし「仙米賊」と呼び、また奥羽一円を掃蕩する計画が世良の密書により発覚した。これに仙台藩強硬派は激怒し、世良を捕縛して処刑し、ここにいたって、奥羽越列藩同盟は新政府軍に抗することを決し、但木土佐の苦心は水泡に帰した。

戦いが避けられない状況になると、但木土佐は玉虫左太夫らとともに「北部政権」とも云える構想の実現に奔走した。これは、奥羽越列藩同盟に蝦夷地も含め、上野戦争から仙台に逃れていた孝明天皇の弟である輪王寺宮を東武皇帝として擁立し、薩長中心の新政府と一線を画す政権構想で、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主となった。

しかし、薩長を中心とした新政府軍の動きは早く、5月には越後長岡が占領され、同盟軍が押さえていた白河城が新政府軍により奪還された。6月には新政府軍はいわきに入り棚倉を占領、7月には秋田藩、新庄藩が同盟を離脱、三春藩は降伏、二本松城が落城した。8月には相馬藩も降伏し、9月15日、仙台藩は降伏し、9月22日、会津藩も降伏した。

内戦を避けようとして東奔西走した但木土佐は、戦犯として東京に拘禁され、その罪を一身に背負い、叛逆首謀の罪で斬刑に処された。辞世の句に残された雅号は、死の前に、国敗れた後の故郷の七ツ森を見たのかもしれない。

雲水の 行衛はいつこ 武蔵野の たた吹く風に まかせたらなん  七峯樵夫

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