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宮城県仙台市青葉区一番町四丁目

  仙台藩校の養賢堂では、儒学だけではない、数学や天文学など広い視野からの教育が行われ、医学の講座も早くから設けられていた。宝暦10年(1760)、藩医である別所玄李が医学講師に任命され、医書の講義を行った。この講義は藩医のみならず、家中 医師や町医師にも聴講が許された。 その後、文化7年(1810)に養賢堂学頭に就任した大槻平泉により学制改革が行われ、文化12年(1817)頃に渡部道可の建議により、医学教育部門は分離独立させることになり、この地に医学校が完成した。構内には施薬所を設け、治療を行うことにより学生の臨床実習の場としたほか、現在の青葉区花京院1丁目には、付属薬園である御薬園を設け、施薬所での薬剤の原料となる薬用植物が栽培された。 その後、明治4年(1871)廃藩置県により、仙台医学館は廃止された。しかし仙台藩医学校出身者の中目斉、石田真らは、宮城県参事の要請を受け私立仙台共立社病院を開設し医学校の伝統は引き継がれた。これが改組、改称を繰り返し、医学教育部門が明治45年(1912)に東北帝国大学医学専門部となり、現在は東北大学医学部となっている。