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宮城県丸森町金山字黒森

別名:金山要害

金山城は、標高117mの独立丘陵を利用した山城。永禄年間(1558~70)、相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したと伝えられる。

天文の乱以降伊達氏の勢力はそれ以前と比べれば大きく後退していた。相馬市や最上氏などが勢力を盛り返し、政宗の父の伊達輝宗の時代には、この地では伊達氏と相馬氏が激しく争っていた。天正9年(1581)には伊達政宗がこの地で初陣を飾り、同12年(1584)に伊達氏の領有が確定した。

伊達政宗は、この戦で戦功を上げた家臣の中島宗求に、この城と金山本郷、大内、井手の三邑(2千石)を知行地として与えた。天正16年(1588)には、相馬に備えて本城や南の山居、黒森山の各所に、石塁、土塁、堀切などの防御施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った。本丸には居館が建てられ、周辺の平場には、兵具庫、煙硝庫、馬屋を配し、これらを囲む土塀や埋門、陸橋などが設けられ、山麓には家中屋敷や町場が配置された。

江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。明治元年(1868)戊辰戦争後は南部藩が白石に転封され、その折に補修されたが、後に取り壊された。

中島氏初代中島宗求は、金山城攻略に功を上げ、その後も新地合戦、人取橋の合戦、葛西大崎一揆の鎮圧、文禄の役と戦功を上げ、秀次事件の際には、伊達政宗の潔白を秀吉に働きかけた。中島氏は、藩政期には仙台藩の重臣として奉行職を務めたが、幕末期には尊王護国を唱え、藩の佐幕派と対立し敗れ閉門となった。十四代信成は戊辰戦争に出陣し、仙台藩は敗れたが、維新後七十七銀行を創設し、地域経済に貢献した。