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宮城県丸森町町西

齋理屋敷は、江戸時代から昭和にかけて七代続いた豪商、齋藤家の屋敷。代々の当主が齋藤理助を名乗ったことから齋理と呼ばれるようになった。七代目当主から、屋敷と蔵が収蔵品を含めてそっくり町に寄贈されたことから、現在は蔵の郷土館として公開されている。

文化元年(1804)、丸森の町場替えとともに店開きした齋理は、最初は呉服と太物を扱っていた。この頃、この地域では生糸の生産が盛んで、齋理も自分で養蚕を始め、生糸の相場を開始してその財力を蓄えた。その後、天保の飢饉では損害を受けたが、幕末、海外との通商の再開とともに生糸相場が好調になり、今の上場企業なみの規模に達した。

戊辰戦争では齋理も様々な被害を受けたが、商売は好調で、この地が伊達領から南部領となった時にも、武家の屋敷や田畑などを入手して、地主としての基盤を固めていった。明治から大正にかけて行われた町づくりでは、発電所、神明社の移転、小学校の建設など、齋理が果たした役割は大きかった。

大正の終わりとともに、豪傑と呼ばれた六代目が亡くなり、七代目の時代に、住宅建設、縫製工場、醤油の製造、販売と、齋理は新しい時代に適応した事業を展開した。しかし、昭和12年(1937)、日中戦争が始まり、この地にも戦争の影が落ち始め、太平洋戦争に伴う物資統制によって、店の商売は止めざるを得なくなった。戦後、農地改革で田畑を手放し、艶出し粉製造などの新規事業は軌道に乗らず、昭和25年(1950)店と蔵を閉めた。

この地の産業の中心は、代々の齋理だったと言っても過言ではない。江戸末期の農村は貧しかったが、齋理での待遇は当時としては大変良かったらしく、齋理で働くことはこの地方の人々にとってはあこがれでもあったらしい。そのためか、この地には、「だんぽ(齋理の当主)」に関わる好意的なエピソードが多く残っている。

当時の貧しい農村から働きに来た子供の目から見ると、ダンポは「天皇陛下のようだった」そうで、小学校の卒業の日には、良いことをした子を家に招いてご馳走し、それはこの地では大変に名誉なことだった。

六代目のだんぽは、「豪傑」で、大変に力持ちだったという。積み上げた米俵から、片手で一俵を抜き出してさらにそれを戻して見せたりしたと言う。

七代目のだんぽはあたらし物好きで、飛行機に夢中になったらしい。飛行機をチャーターし丸森上空を飛ばせ齋理のチラシを撒いた。また子供の着物の模様は、当時ロンドンまで飛び国際新記録を打ち立てた「神風号」だった。

七代目は自動車にも夢中になった。この地方では、病院の次に自動車を買った。しかし当時は、道も舗装してあるわけではなく、石ころだらけの田んぼの道を全速力で走るものだから、自動車はぴょんぴょん飛び跳ねながら走った。この地の子供達は、それを「だんぽのうさんこ(兎)自動車」と呼んで、その様子を面白がったと伝える。