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宮城県丸森町筆甫和田

この地の堂宇 は、切支丹武士の東海林備後が、観音像に擬した聖母マリア像を礼拝した堂と伝えられる。

備後は、慶長15年(1610)頃からこの地に住みつき、寛永6年(1629)頃までの10数年にわたり、村人達に製鉄の技術を教えていた。それは年貢鉄として仙台藩に納められ、村人達は大変に潤った。その製鉄の跡は、この地域のいたるところで見ることができる。

東海林備後は、元和6年(1620)以降、仙台藩と相馬藩の間で起きた国境論争で、この地域の代表として証言し、それが功を奏したことにより、切支丹であったことは見逃されていた。

しかし、伊達政宗の死後、幕府の圧力に抗しきれなくなった仙台藩は、各地で大規模な切支丹弾圧を行い、寛永15年(1638)、妻カテリーナ(洗礼名)ら一族とともに捕らえられた。