宮城県角田市角田字牛館

 

別名:臥牛城、金鶏ヶ館、角田要害

 

永禄年間(1558~1570),伊達氏は角田一帯の支配のため、一族の田手宗光に館を築かせたのが始まりと言われる。しかし、田手宗光はやがて相馬氏と通じて反旗を翻した。伊達輝宗は相馬氏と激しく争い、角田地方を奪回した。

田手宗光の子の宗時は、父にそむき伊達氏に留まったため、角田の地を与えられたが、天正10年(1582)、宗時は丸森の戦いで戦死した。天正14年(1586)、当時二本松城主だった伊達成実が角田の城主としてこの地に入った。

ところが文禄4年(1595)、伊達成実は出奔し、伊達政宗は屋代景頼に命じ角田城を接収、この際抵抗した成実の家臣の羽田右馬之助ら30余人が討死したという。その後政宗は、角田を伊達の直轄としていたが、慶長3年(1598)、伊達政宗の叔父で志田郡千石城主であった石川昭光が角田城に入った。以後角田は石川氏が2万1千石の大領を領し、明治維新に至った。

現在城跡は、角田高校、角田中学校となっている。角田高校の校舎の建つ位置は、周囲より20mほど高い台地で、ここが本丸の場所と思われる。正門を入ってすぐのところに城跡の碑が建ち、城跡らしい地形ではあるが、後世に手を加えられているかもしれない。周囲には水堀の跡が、現在用水路として残る。

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