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宮城県角田市角田字牛舘

台山公園の一画に、角田の基礎を築いた伊達家重臣石川家の御廟である「台山廟」がある。 石川氏の菩提寺は、この台山廟のある台山公園と道路の向かい側にある長泉寺で、長泉寺の境内にも幾つかの廟があり、この台山廟も、そのような廟の内の一つと思われる。

石川氏は、福島の石川郡に勢力を持っていたが、伊達氏、葦名氏、佐竹氏などの大勢力に囲まれ、石川晴光の時代に、伊達晴宗の四男で伊達政宗の叔父にあたる石川昭光が養子となり石川氏を継いだ。しかし、石川郡一郡を維持するのが精一杯であり、その一郡も実質的には佐竹、葦名の勢力下にあった。

伊達政宗が南奥で勢力を拡大してくると、葦名と佐竹は反伊達連合を結び、石川氏もそれに組み込まれた。天正13年(1584)連合軍は3万の大軍を動員し戦った「人取橋の合戦」で、政宗は8千の劣勢ながら連合軍と互角以上の戦いぶりを示し勝利した。その後、伊達政宗は摺上原の戦いで葦名氏を破り、葦名氏は滅亡し、伊達政宗は南奥の覇者に躍り出た。ここに至り、石川昭光は伊達政宗に服属した。

天正18年(1590)、石川氏は小田原参陣はできず、「奥州仕置」によって所領を没収されたが、昭光は伊達家に仕え一門の首座に列せられ、その後は政宗をよく支えた。後に、志田郡松山館に居住して6千石を領し、慶長3年(1598)、伊具郡角田城に移り1万石を領した。

政宗の信頼も厚く、昭光の孫の宗敬は政宗の愛娘を室とし、子孫は一門首座として伊達家中の最高位を幕末まで保持し続けた。