宮城県仙台市青葉区子平町…龍雲院

震災前取材

 

細谷十太夫直英は武一郎とも称し、鴉仙(あせん)と号し、仙台藩の五十石取りの大番士だった。

慶応4年(1868)戊辰戦争の際、十太夫は密偵として二本松にいたが、5月1日の白河城攻防戦の敗戦を聞くや、官軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客ら57人を集め「衝撃隊」を結成した。

衝撃隊は、黒装束をまとい夜戦を得意としていたことから「烏(からす)組」と呼ばれるようになり、後には実際に烏を連れ歩いたという。十太夫は隊旗にも自身の陣羽織にも烏を描いた。

槍と刀を武器に夜襲をしかけ、30余戦ことごとく勝利したといい、その勇猛果敢な戦いぶりは、棚倉藩士16人の部隊「十六ささげ」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」とまでうたわれ恐れられた。

しかし、奥羽列藩同盟も秋田藩等の裏切りや長岡城の落城などにより同年9月、評定により仙台藩は全面降伏した。十太夫は旗巻戦場から引き上げ、戦死者を弔うために墨染めの法衣を軍服の上から纏い両刀を差すという格好で登城し、藩主伊達慶邦に謁見した。慶邦から「武一郎」という名を賜り、武功一番と褒め称えられたが、十太夫は戦死者を弔いたいとこれを固持したという。

このような時期に、仙台領石巻に榎本艦隊が入った。また、星恂太郎率いる仙台藩で無傷の精鋭部隊である額兵隊の200名ほどが、降伏を良しとせず、石巻で榎本艦隊と合流した。これらの諸部隊は、北上川を挟み新政府軍と決戦の構えを見せていた。

しかし奥羽列藩同盟は瓦解し、仙台藩は降伏し、すでに大勢は決しており、十太夫は仙台藩の命を受け、星恂太郎らを説得し、石巻での戦いを回避しようと努めた。新撰組の土方歳三や、額兵隊の星恂太郎らと激論を重ね、十太夫は食料等の物資を提供することで、榎本艦隊が蝦夷地に向かうことを承諾させたが、星恂太郎ら額兵隊は榎本艦隊と行動をともにすることになった。額兵隊の説得には失敗したが、石巻が戦火に巻き込まれることは回避でき、今でも十太夫は石巻の恩人として伝えられている。

烏組も解隊となり、十太夫はその後陸軍少尉として西南戦争に従軍、県牡鹿郡大衡道開拓場長として士族授産事業にかかわり、また日清戦争では軍夫千人長として参加し、のち満州、台湾にわたり多方面で活躍した。

晩年は、仏門に入り、かねてより敬慕していた林子平の墓所である、この龍雲院の住職となった。明治40年(1907)、62歳で没した。

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