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宮城県大和町宮床字八坊原…原阿佐緒記念館

震災前取材

原阿佐緒は、明治後期から大正時代にかけて活躍した叙情歌人。

原家は、代々、宮床の分家伊達氏(初代宗房)の家臣で、塩や麹の販売を業とし 「塩屋」と号した。阿佐緒は明治21年(1888)、父幸松、母しげの一人娘として生まれた。七ヶ月の未熟児で生まれ、ひ弱であったが、豊かな環境と両親の深い愛情に包まれて育った。幼い時から、叔父寅松に漢字の素読を学び、絵筆を持ち、習字も習っていた。生け花・茶・その他は、週に一度、仙台市まで習いに行った。宮床から約20kmの道のりを人力車か馬で通ったという。

当時の宮床村の家庭状況は、農作業、養蚕、炭焼き、ザルの材料(ヒゴ作り)、はし、しゃもじ作り、箕作りであったから、村の人達には、長いたもとの着物に紅緒のぽっくりを履き、ゴム手毬をついて遊んでいた人形のようにかわいい阿佐緒は常に羨望の的であった。しかし父の幸松は阿佐緒が13歳の時になくなった。

明治34年(1901)、宮城県立高等女学校(後の県立第一女子高等学校、現宮城第一高等学校)に入学し、この頃からしきりに文学書を読んでいた。しかし肋膜炎を患い三年で中退、その後母とともに上京し日本画や和歌を学んだ。

18歳の時に、原家に養嗣子として入っていた許婚者が死亡し、19歳の時には美術学校の教師に陵辱され妊娠、自殺を図るがかなわず、長男を出産し、21歳の時に母とともに宮床に戻った。この頃から、宮城学院女学校において絵画を教えるかたわら作歌に熱中し、女子文壇に投稿し天賞を受けた。

この涙 つひにわが身を しずむべき 海とならむを 思ひぬはじめ

仙台で「東北文芸」に参加、「スバル」にも短歌を発表し、25歳の時には仙台において「シャルル」を創刊した。大正2年(1913)、26歳で「アララギ」に入会し、処女作「涙痕」を出版する。

生きながら 針に貫かれし 蝶のごと 悶へつつなほ 飛ばむとぞする

翌年再婚したが、この結婚生活もうまくはいかなかった。次男が生まれるがすぐに別居、大正8年(1919)に離婚している。この時期に第二歌集「白木槿」を出版。

児の手とり かたくりの花 今日も摘む みちのくの山は 春日かなしき

この時期の阿佐緒は、作家としては最も充実していた時期で、久保田不二子、山田邦子、杉浦翆子、三ヶ島葭子らと共にアララギ女流の主流となっている。この時期、仙台の歌壇で一緒に活動していた東北帝国大学の教授の石原純が阿佐緒に思いを寄せてくる。

阿佐緒の離婚後、石原純は阿佐緒に求愛するが受け入れられず自殺未遂事件を起こす。阿佐緒は、石原からの求愛を逃れるため、友人の歌人三ヶ島葭子をたより上京するが、石原もこれを追い上京し、阿佐緒も拒みきれず同棲生活が始まった。石原は東北帝国大学総長に辞表を提出し、これに対し当時のマスコミは「邪恋」として大々的に報道した。大正10年(1921)のこの年、四面楚歌の中、「死をみつめて」を出版。

沢蟹を ここだ袂に 入れもちて 耳によせきく 生きのさやぎを

阿佐緒と石原純は、千葉県保田に「靉日荘」を建て二人で移り住んだが、「アララギ」からは破門され、わずかな友人の三ヶ島葭子や古泉千樫が死去、石原との生活も破綻が生じ始めていた。昭和3年(1928)、石原に無断で保田を去り宮床に帰る。新聞は一斉に「愛の破局」として報道、石原純の新しい女性問題なども報道された。この年、心身ともに疲労困憊の中、第4歌集「うす雲」を出版。

肩並めて ありくに馴れし 安房の海辺 涙ながれて 今日はたてるを

この時期には宮床の実家はすでに傾きかけていた。阿佐緒は再び上京し、酒場つとめをしながら歌人としての再起に努める。昭和6年(1931)には、市村座で公演された「歎きの天使」に出演し、翌年には映画「佳人よ何処へ」に出演、しかしいずれも成功しなかった。

歌よみの 阿佐緒は遂に 忘られむか 酒場女とのみ 知らるるはかなし

この映画がヒットすることはなかったが、その主題歌、古賀政男作曲、原阿佐緒作詞の「あけみの唄」は大流行し、これが阿佐緒が世に出た最後のものとなった。

昭和10年(1935)、阿佐緒は酒場暮らしに憔悴しきって宮床に帰る。その後筆を折り、宮床で静かに暮らす。宮床の実家もすでに傾き、さらに、戦後東映の監督となっていた長男の映画「仔熊物語」の失敗により家財の殆どを失った。老いてからは次男で俳優になった原保美に引き取られ、神奈川で暮らし、昭和44年(1969)82歳で永眠した。

昭和30年代になり阿佐緒の叙情歌が見直され、阿佐緒が愛した宮床の生家、白壁の家が記念館として整備され、仙台市大年寺や七ツ森湖畔に歌碑が建てられている。

阿佐緒の没後、次男の原保美氏は下のように追想している。

母は晩年、宮床に帰りたいと云い続けた。山に咲く可憐なかたくりやまんさくの花を、もう一度見たかったに違いない。その願いをかなえてやりたかった。

然しそこには、病人の母を看護する身寄りも縁者も、もう誰もいないのである。だが、頭もはっきりしなくなっている母は、帰りたいをくり返すばかりだった。

亡くなってしばらくの間、母の夢に悩まされた。 … この頃、母は夢に現れない。きっと故郷に帰ったのだと思う。