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宮城県大衡村大衡字塩浪

震災前取材

別名:越路館、塩浪館

大崎氏の一族で黒川氏開祖下草城主の黒川下総守景氏の次子大衡治部大輔宗氏が天文13年(1544)築城したと伝えられる。本丸部は山城としての地形を良く残し、手入れは行き届いており、斜面には木々は少なく、中世の山城の姿を髣髴とさせる。

黒川氏は南の伊達氏と北の大崎氏とに挟まれていたが、景氏の時期には伊達に傾斜していたと思われ、初期の御所館から鶴巣下草城に拠点を移し、伊達勢力圏の北辺を固めた思われる。中でも大衡城は重要な位置で、黒川領の北端を固める位置にあり、また奥州街道と羽後街道の分岐点にあたり交通の要衝にある。

城は、舌状大地の先端最高部に本郭を置き、東側に二の郭と三の郭を配している。南北、西側は急斜面で囲まれ、西側には空堀があったと推測される。高さは約40m、本郭の平場は東西約40m、南北約100mある。

天正18年(1590)子氏胤の時、豊臣秀吉の奥州仕置で所領没収、廃城となった。葛西・大崎一揆の際には一時占領されたという。