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宮城県栗原市鶯沢南郷柳沢
2012/11/13取材
宮城県西北部の奥羽山脈の山麓にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。鉱山は東西約5キロ、南北約3キロの範囲に広がっていた。
細倉鉱山の発見は9世紀の大同年間(806~10)ないし貞観年間(859~77)に遡るとの伝えられる。天正19年(1591)、伊達政宗が米沢から岩出山に転封になると、金山開発など鉱山開発に力を注ぎ、細倉鉱山は当初は銀山として採掘が始まったと考えられている。
伊達政宗は、鉱山開発に熱心であったが、元和年間(1615~24)には金の生産高は減少に転じ、仙台藩は新田開発による収入増に力を注ぐようになり、17世紀半ばから後半にかけて、銀山としての細倉鉱山も一時衰退した。
しかし、長崎貿易の決済用に金、銀、銅の需要が高まり、また粗銅から金や銀を回収する灰吹法で用いる鉛の需要も高まったことから、延宝年間(1673~81)に入ると細倉鉱山でも鉛の生産が始まった。元禄年間(1688~1704)に入ると細倉鉱山には各地から有力な山師が集まり、新鉱脈の発見がなされ鉱山は栄え、やがて仙台藩内で最も有力な鉛鉱山となっていった。
江戸時代中期以後は、惣山師立が採掘、精錬を行う技術者たちを束ねるようになり、商人たちから資金の援助を受け経営規模を拡大していった。また文政8年(1824)には、鉛の精錬にこれまでの焼吹法から新たな生吹法が採用され、技術的に大きく進歩し鉛の生産量は増加した。
天保の大飢饉によりこの地域の人口は大きく減少し、鉱山も衰退したが、幕末の安政年間(1855~60 |)に入ると、山師の菅原啄治らの尽力で鉱山は復活を見せるようになった。幕末期には、鉛は鉄砲玉に使用される軍需物資でもあったため、緊張した情勢下、藩の御軍用鉛として細倉鉱山からより多くの鉛の輸送が求められ、広域の農民たちもその輸送に携わった。
明治以降は、水害や火災、そして鉛や銀の市況の低迷などの影響で思うように発展しなかったが。昭和9年(1934)、三菱鉱業が細倉鉱山の経営権を獲得して本格的開発に乗り出し、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山へと成長した。
しかし1970年代以降、円高による競争力の低下やオイルショックなどによる不況の影響で経営は困難となり、昭和62年(1987)に閉山となった。その後は鉛鉱石の精錬事業を継続していたが、平成8年(1996)には鉛鉱石の精錬事業からも撤退した。
細倉鉱山は明治以降の日本の近代化に貢献し、また鉱山関連の遺構が比較的良好に遺されていることが評価され、平成19年(2007)、近代化産業遺産群に「東北鉱山」の一つとして認定された。現在は施設の一部が「マリンパーク」として一般にも開放されている。