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宮城県登米市石越町南郷字高森…五十瀬神社

震災前取材

坂上田村麻呂が始めに館を築いたとされ、その後奥州に大きく勢力を拡大した安倍氏の城柵として使用されたと伝えられる。

永承6年(1051)にはじまった前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義とその子義家が率いる多賀城国府軍に備えるべく、安倍貞任 、宗任はこの地を城砦とした。はじめは優勢だった安倍軍も、康平5年(1062)、出羽の清原氏が国府軍に荷担すると劣勢となった。貞任、宗任らもこの柵に拠って頑強に抵抗するが敗れ、金鶏山蝦嶋方面へ退いたとされる。

現在の五十瀬神社周辺が本郭跡で、北参道中段付近が二の郭だったとされる。その後、元亀年間(1570~1573)、葛西晴信の家臣の佐々木安芸が蝦嶋城主となったとき、先祖縁の地の近江の白髪建部神社を分霊し、大崎氏侵攻からの守り神として五十瀬神社を築いた。