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宮城県登米市迫町佐沼字沼向

震災前取材

この地は、天正19年(1591)、伊達政宗が大崎葛西一揆鎮圧の折に、大崎、葛西の旧臣たちが立てこもる佐沼城を攻めるときに陣所とした地と伝えられる。

佐沼城の本丸から北西約300mほどの小高い位置にあり、当時の佐沼城の外堀にあたる西の壷沼のすぐほとりの位置にある。この位置は本陣というよりも最前線にあたり、この大崎葛西一揆の鎮圧が、当時の伊達氏を取り巻く状況の中で、いかに切迫したものであったかが窺い知れる 。

この佐沼攻めの折の陣を敷いた地は、この地のほかに、現在の佐沼税務署の地にあった砂子山だったとする説もあり、この地はむしろ伊達勢の橋頭堡的な役割だったのかもしれない。

前年の天正18年(1590)、伊達政宗は重臣の須田親重が、政宗が一揆勢に送ったという密書を携え蒲生氏郷のもとに走った。このことで政宗は豊臣秀吉から嫌疑をかけられ、京都に召還された。

政宗はこれに対し、金箔を押した自身のための磔柱を運ばせ、鶺鴒の花押に針の穴が開いていないことで自身の筆によるものではないと言い逃れ、とりあえず危機を脱した。

しかし、その後の一揆への政宗の対応しだいでは、領地没収などの恐れも多分にあり、この佐沼城攻めは伊達にとり切羽詰ったものであったろうと思われる。それが佐沼攻めの撫で斬り、そして須江山の惨劇となっていったのだろうと推測できる。