宮城県石巻市雲雀野町一丁目

 

濡れ仏は、文化15年(1818)に建立された釈迦如来坐像。元禄期に京都で鋳造後、海路石巻へ輸送される途中で遭難し海中に没したが、後に北上川河口に漂着したと伝えられている。この由来と全身濡れたような色をしているため濡れ仏と呼ばれている。船舶安全大漁の守護神とされ、境内には江戸時代の海難供養碑も建てられている。

この濡れ仏がこの雲雀野海岸の地に建立された顛末は次のように伝えられる。

仙台藩四代藩主伊達綱村の時代の元禄9年(1696)11月、石巻地方は大津波に襲われ、船300隻余りが流失し、大勢の死者や行方不明者を出した。綱村の母の初子は心を痛め、犠牲者の菩提供養と海上の鎮護祈願のために、北上川河口付近に仏像の建立を発願した。

仏像の製作には、当時名匠として名高い京都の仏師が携わり完成させ、石巻へ搬送することになった。仏像の運搬には大日丸という帆前船が仕立てられ、泉州堺の港を出帆した。釈迦如来のご加護か、順風万帆で遠州灘を始めとする難所も無事通過し、船は房州銚子の沖に差し掛かった。

このとき、船頭が船員一同を集めて、「この仏像を売り払ってしまおうと」皆に持ちかけた。思いがけない船頭の言葉に船員達は驚き、静まり返った。船頭の仕返しを恐れてか反対する声は出なかった。一人だけ、孝吉という男だけが、「海難供養のための仏様を売ったりしては罰が当たりますだ」とおずおずと言った。

すると船頭はいきり立ち、孝吉の襟首を鷲づかみみにし、船から海に投げ込もうとした。孝吉は投げ込まれまいと必死に抵抗し、二人は争いになった。すると、それまで穏やかだった海が突如として荒れ始め、一天俄かに黒雲が現れ、船は激しい豪雨と突風に襲われた。

突然の大時化に、争っている場合ではなかった。大日丸は帆を下ろし、舵を回し大波を避けたが、次の瞬間、数丈もある大波が船を襲い、耳をつんざく大音響と共に船は転覆し木っ端みじんに砕けてしまった。大日丸は仏像とともに石巻を遠く離れた銚子沖に沈んでしまった。

大日丸が沈没すると、どうしたことか、それまで激しく荒れ狂っていた暴風雨はカラリと治まり、再び元の晴天に戻った。調子の浜辺には、夥しい船の破片が打ち上げられ、その破片とともに孝吉が打ち上げられ、集まっていた銚子の村人達に助けられた。助かったのは、この孝吉一人だけだった。

石巻では大騒ぎになったが、大日丸も仏像も戻るわけもなく、いつしか仏像の話題も世の人々から消え去り、数十年の歳月が流れた。

文化15年(1818)4月、その日は折りしもお釈迦様が生まれた日だった。この地の海岸に貝獲りに来ていた村人が、海面に何やら浮いている物を見つけた。何人かの若者が海に飛び込み引き上げると、それは唐金造りの立派な仏像だった。仏像が何処からどうして流れて来たのか、これはどうしたものか、思案にあまり占い師に祈祷してもらったところ、「この仏像はもともとこの地に祀られるべきものであった」という。

村人達は相談し、「この地に現れた仏像は、村への授かりもの、浜の守り本尊として永くお祀りしよう」ということになり、盛大に法要を行い、この地に建立した。

歳月は更に流れ、明治に入ると、神仏分離令により、この濡れ仏の別当の慶覚院法印は神事の方につき、こともあろうに濡れ仏は鋳物師に売り渡されてしまった。仏像を買い取った鋳物師は鋳潰しの作業に取り掛かったところ、その妻が原因不明の熱病で苦しみ出し、また職人が大やけどを負うなど、次々と凶変が起き、鋳物師は恐れおののき、仏像の鋳潰し作業を断念してしまった。

鋳物師は、かねてから濡れ仏を熱心に信仰していた者に相談し、永岩寺に引き取ってもらうことにして、濡れ仏は永岩寺の境内に落ち着くことになった。一方 、仏像を売り払った慶覚院法印は酒色に溺れ、果ては聖人堀に入水し非業の最期を遂げた。また濡れ仏があったもとの雲雀野海岸では、濡れ仏がいなくなってからは、連日時化が続き、漁船が遭難したりして漁が全く出来ず、村は次第に寂れてしまった。

困り果てた村では、役人や村人達が相談した結果、「これは濡れ仏を一刻も早くこの村にお戻ししなければならない」ということになり、永岩寺に仏像の引渡しを頼み込み、もとのこの雲雀野海岸に戻ったと伝える。

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