岩手県一関市大東町大原

2017/05/14取材

 

別名:山吹城

大原城は、大原中学校北側の比高約70mの丘陵に位置し、城域は東西約400m、南北約200mの、東磐井地方を代表する山城である。別名を山吹城といい、かつては路地に八重山吹が植えられていたことからとされる。主郭は東西約100m、南北約40mほどで、東側に大銀杏が生えており、その脇には祠が祀られている。二ノ郭に面する東端には虎口状の土塁が設けられている。主郭の東側に5mほど低く二ノ郭があり、東西約100m、南北約40mほどで、東端には土壇が設けられている。主郭の西側に三ノ郭が配されており、東西約20m、南北約20mほどである。現在は館山公園として整備され、各郭の遺構は良好に残っている。

大原城は葛西七騎の一つ、東山旗頭と称された大原千葉氏の居城で、奥州藤原氏の滅亡後、寛喜2年(1230)、奥州探題として関東から派遣された千葉頼胤の三男宗胤が築城したものと伝えられている。葛西氏家臣の千葉氏と同族であり、大原氏も葛西氏に臣従し、この東山の地に5万貫余の知行を擁する有力氏族だった。

明応7年(1498)、奥州探題である大崎氏の継嗣問題に介入し、大原氏らの千葉氏一族は大崎氏側と葛西氏側に分かれて争った。大原広信は薄衣美濃入道と同盟して葛西大守に反抗した。また永正元年(1504)には、大原信明は、葛西氏に反した気仙郡の浜田基綱と戦いこれを破った。

天文11年(1542)、伊達家中で伊達稙宗と晴宗の父子が不和となり、「天文の乱」とよばれる内紛が発生した。この伊達氏の内紛に、奥州の諸大名は、稙宗派と晴宗派とに分かれて互いに抗争する事態となった。葛西氏は、当主の高信をはじめ、大原氏らの大身は晴宗派に属した。しかし、葛西晴清の実父は伊達稙宗で、葛西高信の養子に入っており、そのため晴清は稙宗派に属し葛西家中も二派に割れた。

天文12年(1543)、葛西高信は大原氏の嗣子にその次男の信茂を入れ、大原氏の葛西氏家中における勢力は一段と大きいものになった。しかし、この間、中央政局は大きく動いており、天正18年(1590)に豊臣秀吉は小田原北条氏の討伐を開始した。葛西氏は、このような中央の情勢に疎く、小田原には参陣せず、所領は没収されることになった。

豊臣秀吉は、抵抗する様子を見せる葛西氏に奥州仕置軍を差し向け、この時、大原氏ら千葉氏一族の1千700騎は、千代竹丸を大将として、現在の宮城県石巻市の神取に出陣し抗したが、戦慣れした仕置軍に抗すべくもなく敗走し、大原城も落城、葛西氏の本城の寺池城も包囲され落城し、大原氏は没落した。翌・天正19年(1591)には葛西氏と大崎氏の旧臣らが一揆を起こし、大原飛騨守重光もこれに加わったが敗れ、その後、桃生郡深谷にて討死した。大原重光の弟の経光は浜田氏と共に遠野へ逃れ、南部信直に仕えたとされる。

一揆平定後、石田三成がこの地域の要地として大原城を修築し伊達政宗に引き渡した。政宗は家臣の粟野大膳大輔を城代として大原城に配した。