岩手県一関市花泉町花泉字上舘

2011/12/06取材

 

別名:清水城、舞鶴城

二桜城は、金流川北岸の西から東側に張り出した、比高約50mの丘陵先端に築かれた山城である。西へ伸びる尾根を二重の空堀で断ち、土塁を設けている。城の規模は東西約200m、南北約150mほどで、頂部の主郭を中心に、東側に二ノ郭、三ノ郭を階段状に配している。主郭には八幡神社が祀られており、東西約60m、南北約60mほどで、その下に旧花泉町の名の由来となった湧き水がある。各郭は、高さ5~7mの急峻な切岸が設けられている。

築城年代は定かではないが、延暦年間(782~806)に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおりの陣所としたことに始まり、その後の弘仁2年(811)には、文室綿麻呂も陣所としたと伝えられる。

前九年の役の際の康平元年(1058)には、安部氏征討のため、源頼義に軍監として従った熊谷直李が在城した。文治年間(1185~90)頃には、奥州藤原氏の有力家臣の照井太郎高春が居館としたという。

延慶2年(1311)、葛西氏の庶流の、葛西和泉守清秀が、本吉郡大谷郷より転住し、以後清水氏と称し、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が没落するまでの13代280年の間、居城としこの地を支配した。その後この地は伊達氏が領することになり、文禄2年(1593)には、伊達政宗の叔父である留守政景が、利府城、大谷城を経てこの二桜城へ移り、元和年間(1615~24)頃まで在城したとされる。